気着

●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさんが子供の時の、大人の思い出。



ヒガイさん


ここに一枚の古びたモノクロ写真がある。

小学校2年生の私とヒガイさんのツーショット。

両脇の髪を三つ編みにしている私が屈託なく笑っている。隣に背広とネクタイ姿のヒガ

イさんがやっぱり笑っていて、私の肩に手を置いている。

私とヒガイさんはとても仲良しだった。懐かしい写真である。

私の育った家は印刷屋で本や雑誌の編集者が多く出入りをしていてヒガイさんもその一

人だ。

業界紙の編集者というと一種独特のはったりとかアクのようなものを持っていて近寄り

がたいものだが、ヒガイさんはまるで普通のおじさんっぽい。ちょっとくたびれたよう

な地味な背広を着ていつも穏やかな中にも、なんとなく知的な雰囲気が漂っていた。

私は小さい時からあまり人見知りしない質で、住まいも同じ棟だったので工場や事務所

を年中ちょろちょろしていた。

あるとき、私はかまってもらいたくて事務所でゲラ刷りの校正をしているヒガイさんの

邪魔をし始めた。そして、聞いた。

「おとなってこわいものないの?」

突拍子もない質問にヒガイさんは怒りもしないで鳶色の目でまじまじと私を見た。

「さあねえ・・・」

というと、ゆっくり縁なし眼鏡を外し、どう答えようかと目を瞑って考え始めた。横で

私はじっとヒガイさんの言葉をまっている。

「ああ、そりゃ、あるさ」

ようやくヒガイさんは口を開く。待ちきれずに私が先回りをする。

「なーに、おばけ?」

「いーや、人間さ。人間が一番こわい」

そんな会話だったと思う。

写真とともに鮮やかに浮かぶヒガイさんとの交流のひとコマ。

小学生の私が“人間が一番怖い”という言葉の深遠さを理解するはずもなかったが、そ

の言葉はずっと心に残っている。そして私の質問にきちんと向き合ってくれたヒガイさ

んは忘れられない人なのである。


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