12/28のしゅちょう
            文は田島薫

生きがい、について


元気だった私の両親も家人の両親も、今年までの5年のうちに年老いて亡くなり、人

生は有限なのだ、ってことを実感させられて、私自身の命も長くても20年短ければ数

年後かもっと短いかもしれないと思うと毎日を大事に過ごしたい、って感じるわけで

そう思う頃から、就寝時、家人と「きょうよかったことは?」って言い合うようにな

った。「何何をやった」とか「何何を観て楽しかった」とか「だれだれと話ができた」

とか、心身を喜ばせたようなことを上げるのだ。

死ぬ時に、あれをしとけばよかった、あの人にこう言っておけばよかった、ってなこ

とにならないように、できることをできるだけ積極的にやろう、って考えで。

そう考えた時に、じゃ、自分が心の底で常に思う価値あること、ってなんなんだ、っ

て考えると、私の場合は絵なのか音楽なのか何かの創造的表現、ってことになりそう

で、だから、例えばらくがきのような色えんぴつで描きなぐった絵に、ある種、よし、

って思えたり、下手なギターのピッキングやピアノのでたらめ弾きで、いいフレーズ

が生まれたりした時とかなんだけど、それについて他人からみれば、それがどうした、

なんの価値があるんだ、それが世の中に出回って人々がいいもんだね感動したね、と

でも思うんなら別だけど自分だけ満足、ってことじゃ、ってことだろう。

実際に世の中に出て、その世界の同じジャンルの作品といったようなものの中に並べ

られ、どれが一番すぐれてるか、などとだれかに評価されたり、人々の人気投票で順

位を決められたら、そのよさはわかりやすいのかもしれないし、自分の客観的位置も

自覚して、進歩努力が具体的になる、って考えもわかる。

ところが、本物の創造、ってものの価値が一番わかるのは作った当人だけなのだ。

他人がわかるのはその一部でしかないし、たいていの部外者的一般人に理解できるの

は時代の流れの中で評価が一般化されたものだけなのだから、そういったレベルの視

線ばかり気にしていて大成した者はまずいないはずなのだ。

例えば、熊谷守一は数十年自宅の庭から出ずその庭の中のできごとばかり絵にして、

ほとんど発表もしなかったけど、その絵のよさは少数のわかるものにはわかったのだ。

もちろん私の絵が彼と同等の価値があるかどうかを言うつもりはないんだけど。

とにかく、自分の感覚を信じて、できる限り自由に表現できたら、それは生きがい、

って言えるものになるかもしれない。そして、結果的に他人から酷評されたとしても、

私なら、知ったこっちゃないことなのだ。

で、読書でも、他人とのコミュニケーションでも、自分だけの瞑想でも、何かを発見

することがその創造性の糧になるわけだから、そういったことをコツコツやってるこ

とはやっぱり、生きがいになるかもしれない、極端な話、なにも作らなかったとして

も自分の人格自体を作品と考えてもいいのだし、そして、それに完成、ってことはな

いわけで、その発見と創造の過程を納得できれば、心は救われて、人生の価値にその

長さも短さも関係なくなるのだ。




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