きょうのしゅちょう
            文は田島薫

礼をつくす、ってことについて


私は冠婚葬祭などの儀礼的つきあいなどに神経や金を浪費することに疑問や批判的な

気持を持ってて、親しい友人や親族との関係においても、そういったことへの関わり

は最小限にしてきたんだけど、そういった儀礼すべてに反対してるわけではない。

私だって親しい人の病気の回復や結婚やなにかの成功などは嬉しく祝ってやりたい気

持もあるし、死にはお悔やみの気持ちだって大いにある。

ただ、現代の忙しいわが国では、当事者近辺の人々の手間暇かけたそういった集まり

の準備や遂行などを業者が代行することになり、それが商業としてその金銭的規模が

エスカレートして行ったことが問題なのだ。

大昔なら、そんな時、近辺の人々は着の身着のままに集まり、今自分にできるサイズ

の心を込めた思いを捧げたはずなのに、今のやり方は、豊かな者にとっては合理的で

簡略化された便利なものなのかもしれないんだけど、貧しい者にとっては、心よりも

金銭的必要出費といった部分が全面に出た風習に変わってしまった感があるのだ。

祝儀や香典が直に当人たちの身に役立つような働きをするなら多少の無理をしてでも

喜んで金銭を出せるんだけど、それが、いらない飾り付け的費用としてほとんどが業

者のふところに消えてしまうと思うと空しいのだ。

とは言っても、どんな儀礼的に大掛かりになったそういった儀式にしても、当人にと

っては心からの意志の場合も多いんだろうから、それを、勝手な貧民の理屈で頭から

批判してしまうのも大人気ないのかもしれないわけで、そういった関係でつき合うは

めになった貧民はできるだけ金銭的な無理などはせずに、礼儀だけはきちんと整える

のが優しさ、といったことになるのだろう。

なんでこんなありがちな話をしてるかと言うと、今まではそんな儀礼はパスで不義理

でもなんでもいいじゃないか、って気持だったのが、昨日、祝儀や香典を包む袱紗を

染めてる職人から聞いた話に心が動いたせいもある。

職人は、袱紗の正しい使い方を説明し、ある古い家柄のお宅のお祝に来た者がそれを

知らず間違った形で差し出したところ、家のものが、それを受け取れないのでお帰り

ください、って追い返したそうだった。

礼をつくす、ってことは礼儀作法に沿ってきっちりそれを行うことが大事でそれをし

た者は自分を大切に考えてくれてると受け取ることができるのだ、ってことのようで、

その形が大事であって、中身の金銭の額は問題ではない、ってその職人は言った。

それを聞いて、なんだか、そういった気持は理解できる気がしたのだ。

なんでも自分の考えと違うから従わない、ってつっぱるのもいいんだけど、そういっ

た儀式にかかわりをもったのだったら、それをきっちりやるのが相手への敬意なのだ。

そういった儀式への関わりをまったく持たないと宣言して一切関わらないか、関わる

のならきちんとできる限りの儀礼をつくすかのどっちかなのだ多分。

新しい考え方を提唱実践したいのなら、他人が実践中の環境に土足で上がり込んで大

声上げても混乱を招くだけで、それは自分のことから地味に始めるのがいいんだろう。




戻る