思いつくまま、気の向くまま
  文と写真は上一朝(しゃんかずとも)


シャンせんせいのガンリキエッセー。
センセー、失敗のおかげで福を得たようです。



知足




となりの大学も始まった。

小中学校は、とうにはじまっている。

すると、「ココ」も始まらなければならない。


あすは秋分の日。秋の彼岸になると彼岸花が思い出される。

自転車で15分のところに彼岸花の群生している寺がある。その広さはテニスコート3

面くらい。それはみごとなものだ。この彼岸花は野生ではない。この寺の境内を管理し

ている、昔風にいえば寺男のおじさんが趣味でつくっている。ここをみつけた6〜7年

前は見物人もちらほら、閑散としていたものだ。ところが最近新聞などで紹介され、見

物人がふえるとともに植え込みとの境に、無粋なロープがはられるようになった。

このおじさんは豪快で、ロープをまたいで写真を撮る人をみつけると、「中に入るんじ

ゃない、これは俺の趣味で作ってんだ。見せるためじゃない。文句をいうなら門を閉め

ちゃうぞ」といせいのいい啖呵をきる。この怒声は、自分さえよければという風潮にい

い教育になる。


満開のころをみはらかって出かけていき写真を写し、となりの梨園でなしを買ってくる

のが恒例となっている。しかし、満開の時期はその年の気候でおおきくずれるので2、

3回はかようことになる。

今年は一発で満開にあたった。しめたとばかりにカメラをとりだすとさあ大変、バッテ

リーが残り少ない。どうせまだダメだろうとカメラを点検しないで出かけてしまった。

計算してみると30枚くらいしか写せない。モニターを切ったりして節電モードで慎重に

写した。

モニターが見られないので写り方がわからない。

昔はそうだった。フィルム時代は現像してみなければ写っているかどうかもわからない。

それに、35mmなら一本36枚、6×6なら12枚しか写せなかった。自然一枚一枚を大事

に写すことになる。ところがデジカメではこの景色を200枚くらい写す。ほんの少し角

度を変えたりと、絵をイメージしないでおもいつきで写しているようなものだ。

撮影の原点に帰って、一コマ一コマを真剣に写した40枚の大半はトリミングの必要もな

く、そのまま伸ばして飾れるように写っていて無駄がなかった。


表題の「知足」は、「たるをしれ」と読み、禅でいう「満足ということを知れ」とでも

いうような意味である。

人は物が豊富にあるとその欲求はとどまるところを知らない。とくに日本人の物欲は異

常である。それはリサイクルショップの店先に新品同様の品が並ぶのをみればわかる。

そこには、満足というものがみられない。あるのは欲望と惰性と無思量だけである。

彼岸の一日、「知足」という仏の言葉をあらためて感じた。

写真は、規模を見せる為に平凡なものにした。気合をいれて写した一枚を、へたな絵描

きに見せたらほめられた。


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