思いつくまま、気の向くまま
  文と写真は上一朝(しゃんかずとも)


シャンせんせいのガンリキエッセー。
センセー、時代の変化もちょいとは認めてるようです。



また、行っちゃった




もう歌舞伎を観ないと公言して5、6年になる。

そのわけは、観るべき役者がいなくなってしまったことと、観客の変化である。

前者は、上手な役者が高齢あるいは故人となってしまって若手ばかりになったからだ。こ

れはいつの時代にもあったことで役者が上手くなるのをまてばよい。ところが観客の変化

はどうにもならない。そもそも歌舞伎というものをまったく知らないでくるのだから無理

もないが、悲しむ場面で役者の所作がおかしいと笑われては興ざめである。


とは言いながら二度禁をやぶっている。一度は演目がよかったためで、昔の役者の名舞台

が目に浮かぶ。そうなるとどうせ行ってもがっかりするとわかっていながらでかけてしま

い、泣きをみてかえってくる。二度目は毎年もらう招待券で行った。高い金を払っていな

いのでなにがあっても腹がたたずに素直にみることができた。とはいっても前にも増した

観客の変化だけはがまんができなかった。

そんなわけで招待券も老妻にゆずり閉門蟄居をきめこんでいた。ところがこの五月の出し

物は、演目もよく二世三世ながら役者もそろっている。老妻の「行ってみようか」の一言

でついふらふらと出かけてしまった。


舞台は現在としてはよかった。役者も40歳ともなると先代の呪縛からときはなされて当

代の芸になる。役の解釈や所作に不満があったがこれは先代でもおなじだ。先先代から芸

をひきつぎやがて自分の芸をつくる。これが歌舞伎の醍醐味でもある。

さて、舞台はいいとして、観客、お客様、見物衆とどう呼んでもいいがますますいけなく

なった。むかしは、開演前の劇場側からの注意は「写真撮影おことわり」だけであったが

時代とともに「携帯電話を切ってください」がくわわり、とうとう「座席での会話はまわ

りのお客様の迷惑になります」がふえた。それも場内のスピーカーからではなく各座席の

ブロックごとに従業員が手わけして、まるで「私たちが見張っていますよ」と言わんばか

りの光景がくりひろげられた。どうせここまで観客のマナーが落ちたのなら、前にも書い

たがのべつ幕なしにする拍手も自粛するように言ってもらいたい。

この観劇マナーの低下の原因は某歌舞伎役者にあるのはわかっているが、彼は観客層を広

げたという功績もあるので功罪相半ばというところだろう。もうひとつはライブの影響が

大きい。出演者と観客が一体となって楽しむということは悪いことではないがどこでも同

じだと思ってもらってはこまる。

とはいっても時代というものは変わっていくものだ。その変化についていけない者はおと

なしくしているのがよい。そこで表題を「また、行っちゃった」と自嘲的なものにした。


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