思いつくまま、気の向くまま
  文は上一朝(しゃんかずとも)


シャンせんせいのガンリキエッセー。
センセー、大切なものの消滅を嘆きます。



五円玉と一円玉


孫と遊ぶでもなく、草むしりをするでもなく、郷里へ帰るでもなく、なんの予定もないゴー

ルデンウィークを迎えた。

毎週がゴールデンウィークのような生活をしているのになぜか心がさわぐ。毎度、日本人は

付和雷同がすぎると言っている身には、なんとも面目がたたないことである。

それでも休みの間はわざわざ人ごみに出ることもなかろうとじっとしていたが、七日八日と

数えるうちにがまんができなくなり散髪をかねて出かけた。


昨年暮れに書いたのとおなじ床屋。こんどは店員ではなく客の美技。

ひと目で銀座のあきんど、とわかる初老の男性がレジで札をだした。

「10円ありますかと」と、つり銭をきれいにしようとした店員。

小銭入れを取り出した客が「あっ五円玉になっちゃう。それでいいよ」と、札を指す。

「五円玉でいいですよ」と、小銭の混ざらないつり銭の用意をする店員。

「おたくでは五円玉なんかつかわないでしょ」。

「いえ、使いますよ。6円とか7円のおつりの時もありますから」。

「そう、わるいね」と言って五円玉2枚をだして支払いをすませた。

それがどうした、といわれそうな会話だが、「おたくでは五円玉なんかつかわないでしょ」

の一言にうれしくなってしまった。使いもしない五円玉がレジのなかに混ざる煩雑さへの心

遣いがよくわかる。このような行き届いた心遣いがなくなって久しい。


スーパーのレジで一円玉をだしたところ、「あたらしい一円玉ないですか」と一円を返して

きた。「なんで」と聞くと「機械に通らないんです」とあたりまえのようにすましている。

よく見るとその一円玉はすこし曲がっている。

たしかに硬貨を選別して計算するレジでは受けつけないであろう。しかし、曲がっていよう

と、角がささくれ立っていようと一円は一円である。機械が受けつけないからといって金と

みとめないのはおかしなことだ。もし、ほかに一円玉を持ち合わせていなかったら大きな金

をよこせとでもいうのだろうか。こういう場合、手もとに交換用の硬貨を用意しておけば客

にいやな思いをさせないですむだろう。なにごとも機械まかせになってから客への心遣いと

いうものがなくなった。


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