10/20のしゅちょう
            文は田島薫

(環世界について


先日テレビの哲学入門的な番組をたまたま見てたら、若手哲学教授がタレントにレ

クチャーしてる中で「環世界」って言葉が出てきた。

なんとか、って生物学者が生物それぞれに知覚世界が違ってる、って当たり前のよ

うなことを指して言ったのが元で、今や人間の知覚まで応用されて使われる常識的

用語らしいんだけど、私は知らなかった。

私も常々感じてることと同じなんだけど、そういった用語でまとめられると、より

認識がはっきりして来そうだし、昨今の様々な事件や身近な人間関係トラブルの背

景などもよく見えてくる。

私は都内に事務所があった時、駅からの商店街のほんの200メートルほどの商店の

並びをとびとびにしか思い出せないのに、街や人好きの同じ事務所の相棒はそれを

ほぼ完璧に認識してるのに感心したんだけど、一方、私が事務所でかける音楽には

あまり関心がなく、ある女性歌手のはどの曲かけても「歌が下手だ」、バッハの無

伴奏などはどれかけても、「葬送曲だ」といったくくりで全部片付けてしまったり

する、といったような、私との諸々の違いがあったんだけど、こういったことはそ

れぞれの遺伝的なもんや環境的なもんの違いによって好きになる物事に違いがあっ

て、常に見たり感じたりするものが違うわけで、だいたいは見たいものしか見てな

いもので、目や耳に入っても関心ないものは見えないし聞こえないのだ。

人は自分の知覚したり関心を持ったものがよいもので重要なものだ、って感じるわ

けで、それと違う他人のそれには無関心か、否定をしてしまいがちになる。

サラリーマンの酒場での上司や同僚批判は、基にそれがあるわけで、言ってる方も

別の席ではたいていは同じように批判されてるもんだし。

それでも人と常にそういった会話なりやってる層は、うすうすその事を自覚するも

んで、他人の話も少しづつ考慮したりしていって「成長」するもんだろう。

それが引きこもっちゃってそういう機会がなくなると、自己本意の感覚ばかりが育

ち、それでも自分だけで人やなにか好きなものを追求して楽しめるんなら多分問題

ないんだろうけど、それがなくて、孤独や不遇を感じ、その原因を世間のせいにし

敵視することになれば、だれでもよかった、って通り魔殺人する気になるかも。

だから環世界は、豊かな方がいいわけで、それはあらゆる意味での学習なんだろう。

学習すると、世界の豊かさや構造や矛盾なども理解できてくるはずだし、自分と世

界の関係や心を楽しませる実感だって増えてくるのだ。

ちなみにバッハを葬送曲、って言ってた彼は後にある時のなにかの自覚をきっかけ

にクラシックが大好きになった。




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