7/8の日記          文は田島薫



家人の母親の死

入院していた家人の高齢な両親の見舞いに家人の兄貴と時々交代で長野へ出かけてい

たんだけど、先週の火曜日にも、午前中に千葉へ帰った兄貴と入れ代わりに家人と私

が午後に到着。母親は老衰などで反応が鈍くなった後2ヶ月ほど前、肺炎で入院し、

われわれが最初に見舞い、家人が元気になった報告をした時、よ、か、った、ってや

っと言ったのが最後でそれから、手を握り返すことがあったぐらい、やがてそれもな

くなり、反応をまったく示さなくなってたんだけど、危ないと言われながらここんと

こ心電図などが安定していたこともあり、いつもの新幹線を使わずゆで卵や手作りコ

ロッケパンなどの弁当用意して旅行気分で高速バスで出かけ、楽しく2時すぎに到着。

両親の家へ着くと、そこから徒歩で25分の病院へ、呼吸レベルが落ちてきたためだ

という酸素マスクをつけられてたんだけど、わずかに吹き出し口がゆれるぐらいのも

ので、規則正しく自力呼吸してるようなんで、とりあえず大丈夫と判断、30分ほど家

人が一方的に話しかけたりふたりで足や手もんでからまた明日、って言い病院を出て、

近くで見つけたマーケットで魚や野菜を買い込み、となりの駅まで歩き、100均でヨ

ーグルト作り用のガラスびんを買ったりして、6時ごろ両親の家へ着き、晩飯の飯や

味噌汁なんかが出来上がった頃、病院から電話で、心臓が止まった、と。

車でやっと千葉の自宅へ帰ったばかりの頃の兄貴夫妻に連絡。とんぼ返りでまたこっ

ちへ向かう、と言うんで、慌てないでゆーっくり来てくれ、って言っといた。

兄貴が前もって話をつけてある葬儀屋に連絡、われわれはそれの指示に沿って、葬儀

社へ母親の車を追ってタクシーで移動。

翌日に家族葬の通夜という予定で夜中に到着する兄貴の車を待ってると、家人が知っ

てる父親の高齢の妹とわれわれと同世代のその息子と娘がやって来て、息子の方は運

転しない、って言うんでちょっとビールをいっしょに飲んで話したりしてから兄貴を

待ちたい、っていう姉弟に、少し認知症だと言われてる母親から、迷惑だからもう帰

ろう、って主張されて3人で帰って行った。上信越道が霧は出るは工事中片側通行だ

った、っていいながら兄貴夫婦が到着したのは午前2時半、待っていた葬儀社の担当

と簡単な打ち合わせをした後、兄貴夫婦を残しわれわれはタクシーで一旦両親の家へ

戻り翌日出直すことに。

当日は喪服に着替えたわれわれを兄貴が車で迎えに来てくれた。

通夜はわれわれの他親しい親族が10人ほど集まり、通夜や告別式や七回忌までの分を

一遍に坊さんがお経にして、われわれはその都度焼香した。

親から先日引き継いだっていうラクビー選手のような体の若い坊さん、妙に張り切っ

て、お浄めのテーブルの配置代えなんかも陣頭指揮したりして、さて飲もうか、って

時、ちょっとあいさつ、ってたっぷり10分ぐらい、自分より年上に向かって上から目

線風説教をやったため(?)宴会(?)の正味が1時間弱ぐらいになり、料理や開けた

ばかりのビールを残したままお開きになった。

翌日は納棺と火葬、マイクロバスで向かった火葬場はくにゃくにゃ曲がりくねって上

って行く山奥にあった。親族同士、われわれ世代はなんだか楽しく談笑しちゃったり

してたんだけど、不謹慎だったかも。




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