7/29のしゅちょう             文は田島薫

肯定の力について

批判精神は大事だ、っていつも私は言ってる気がするんだけど、だからといって、見るも

の聞くものなんでも手当りしだい批判すればいい、ってもんでもないだろう、だって、批

判された方はどうしたっておもしろくないから、批判に対して反批判したりして、ただの

不毛なケンカになっちゃうことも多いんだし。

批判、ってもんは、相手の立場をよく理解した上で考えに考えた末、それをすることが、

世の中のためにも相手のためにもなる真理だ、って確信した時にこそなんらかの力を発揮

するものなんであって、それ以外は弊害だけ残すことが多いのだ。

生まれや育ちによって人の生活習慣や言葉使いは大きく違って来るわけだから、その違っ

たもの同士が、相手に対して違和感を感じるのは当たり前のことであって、いつも自分中

心に物を考えてしまう世間に一番多いタイプだと、どうしてもそういった相手に対して、

全くなんて変なやつなんだ、とか、なんて非常識なやつだ、とか、なんて慇懃無礼なやな

やつなんだ、とか、なんて下品なやろうだ、とか、切りのない感想を持ってしまう。

それでも、そういった環境によって人間は違って来るもんなんだ、って認識が少しあれば、

少しづつ相手のことも大目に見たりしていいところを探したりもできるはずなんだけど、

好奇心を持った人間好きタイプ以外のたいていの人々はそんな面倒なことやりたがらず、

そういった相手のことは、スパっと切り捨ててしまうことが多い気がする。

やることなすこと、だめないやなやつ、なるべく近づかないようにするし、もし、なんか

で遇ってしまった時も、相手にしないことにしよう、などと。

しかし、関係を切りさえすれば問題はないだろう、って考えるのは一見いい考えのように

見えるんだけど、それをされた相手の立場ではそう簡単にはいかないのだ。

切り捨てられた相手は自分の存在を全否定されたと感じるわけで、なるほど、自分を切り

捨てた人間は自分のこういうところが許せなかったんだな、へ〜、ずいぶん思いつめた狭

い思考回路を持った人だな〜、って風に考えられればいいんだけど、そうじゃない場合、

やっぱり自分は生きていちゃいけない最低の人間だったのかな、ってふと感じてしまった

り、そうやって人を否定する人間こそが不要なのだ、って怒るかもしれない。

ところが、前述のように、環境によって人のあり方は変わるもんだから、自分のやり方と

違っててもたいした問題じゃないはず、否定はしないで、様子をみてみっか、ってのんび

り構えてみれば、最初よっぽど変に見えた言動も納得行く場合も多いわけだし、その人間

の良さだってだんだんわかって来るのだ。

クラッシュ、って映画は、警官に最低のセクハラ被害を受けた女性が、ある時事故で炎の

車に閉じ込められ、それを命がけで助けたのが、そのセクハラ加害警官だった、って話。

セクハラは最低だ、って言うことは簡単だけど、命がけで人助けするのは簡単じゃないは

ず、人の存在にすぐ白黒つけちゃわないで、存在自体は肯定すんのがいいのだ。




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