●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
子供の時から謎だった言葉。



シリーズ 街角ストーリー

仕舞屋


幼い頃、大人たちはよく「しもたや」と言葉を使っていた。

例えば「あのしもたやの角を曲がって」とか、「あの家はしもたやだから」という風に。

子供心にしもたやってなんだろう? と思っていた。しもたやってなーに? と大人に聞い

た記憶はない。

ただ、商売屋ではないことだけは漠然とわかった、語感から、ひっそりとした雰囲気があり、

何か訳ありのように感じがしていた。

はっきりとした意味もわからないまま、そのうち漢字を覚えるようになって仕舞屋と書くこ

とがわかり、ひょっとして舞を舞う芸者が引退しておめかけさんになった家かも…なんてい

う想像もした。

そして大人になったときは、すっかりその言葉は死語になっていて聞くことも使うこともな

かった。

ところが、最近、読んでいた小説の中に仕舞屋という言葉が出てきて、改めて字面の美しさ

と語感のよさに感じ入った。

とても懐かしい人に出会ったような気がして、この際きちんと辞書で調べようと、三省堂の

「大辞林」を開いてみると、「1 商家ではない普通の家、2 もと商家であってその商売をや

めた家、3 商売をやめて家賃や金利などの収入で裕福に暮らす町人」とあった。

子供の頃、大人たちは1 2の意味で使っていたのだと思う。

今は、「商家でない普通の家」はなんというのだろう。個人住宅?

「もと商家であってその商売をやめた家」はシャッターを下ろした家?

なんとも味気ない表現だ。

私の近所のバス通り沿いの小さな商店街は、まず、酒やがつぶれ、カメラ屋が店を閉じ、豆

腐屋がなくなって個人住宅に、残るはクリーニング店だけ。すっかりシャッター街になって

しまった。

みんな誇りをもって営々と商売に打ち込んできたのに、時代の波に押され、泣く泣く店を閉

じたのだ。仕舞屋の周りは寂寞として、哀感に満ちてひっそりとしている。

ほうら、やっぱり仕舞屋はちょっと訳ありなんだ、私は子供のときの第六感はあたっていた

のだと思いを強くした。


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