7/1のしゅちょう             文は田島薫

芸術批評の不毛さについて

人間の批判精神といったもんは大切で、それをなくしていつも世の中の流れに身をまかし

だれかリーダーの言うことをいつも丸のまま信じきったり、自分以外の大勢が言ってるこ

とに違和感を覚えたとしてもそれが自分が間違ってるせいだとすぐに修正してしまったり、

ってことをだれもがやっていたら、知らずに危険な状況を招くことがある、ってことは歴

史が証明してるわけで、だれでも自分が感じたり考えたことは自由に表現できる環境の方

が世の中、健全のはずなんだけど、こと、芸術表現に対する批判、ってもんには、慎重さ

が必要なのだ。

それはなぜかと言うと、芸術表現に究極、「いい、わるい、はない」ってことを前提にし

なければ、切りのない不毛の傷つけ合いが起きるからなのだ。

人の感性や好みの傾向はその、性格や生い立ちや環境によって千差万別なのだから、ひと

つの芸術作品に対して、だれでも様々な感想を持つのは当たり前なんであって、試しに、

どこにでもいる芸術の勉強したことはないのにリアルな表現の絵なら高評価のおじさんや

おばさんにピカソの「泣く女」を出して、その正直な感想を言ってみてくれ、って言って

みれば、ボロクソに言われるか、よくても、自分には難しくてよさはわからないな〜、っ

て言われるのが主だろう。ひょっとすると、何も考えない子供の方がその絵をおもしろが

るかもしれない。

それはだれでも自分が知ってる価値基準によって、いい、わるいを判断するもんだからで、

その傾向は、ちょっと絵を習ったことのある人のグループや、絵画事情や歴史を知ってる

人のグループでも微妙に違いが出てくるだろう。

絵などを、わかろうとするんでなくて、感じることが大事だ、ってよく言われるのは、芸

術鑑賞における至言なんであって、人はこれをよく忘れるもんなのだ。

だったら、だれでも感じることに集中すれば、どんな芸術作品でもよさがわかるのか、っ

て言えばそれはそうはいかないわけで、それはやっぱり、先述した個々の限界があるのだ。

だから、人はどんなもんでも鑑賞して判断できる能力がある、って考えてはいけないんで、

自分が感じるものだけを、とりあえず信じればいいのだ。で、自分の感受性の幅を増やす

こともやっていいし、可能かもしれない。

ただ、問題はその個人の限界を気づかずに、なんでも、いい、わるい、の判断力が自分に

ある、って勘違いした芸術評論家ほどたちが悪いもんはないのだ。

たのまれもしないのに、聞いたふうな凡庸な説明を延々と述べたり、時流に流される自分

の単なる思い込みに過ぎない価値判断で、汗と涙と歓喜と疑惑の長い時間を戦った孤独な

ひとりの芸術家の仕事を、一言のもとに、古い、とか、凡庸、とかで否定する。

古いとか凡庸と自分が感じさせられた中に見るべきものがなにひとつない、って言いきれ

るとしたら、たいがい、古くて凡庸なのはそういう目しかもたない評論家当人なのだ。




戻る