2/4のしゅちょう             文は田島薫

敵味方発想について

自分にとって、相手が敵なのか味方なのか、どっちかに振り分ける考え方は、自分の

行動を決める時に単純でわかりやすい、ってことはいえるわけで、敵に対しては、な

にか不利益や害を被らないか警戒して、それに備え、場合によっては、こっちが先に

相手に不利益や害を与えちゃう、ってことで自分の身を守る、って考え方も出てきそ

う。逆に味方には気を許して、利益を与え合ったり助けあったりするわけなんだろう。

で、味方だと思って気を許していろいろ便宜を計ってやってたりした後で、お返しに

害を与えられちゃう時は、裏切られた、味方だと思ってつき合ってたら敵だった、っ

てような表現になったりする。そうだとすると、最初から私はあんたの敵ですよ、っ

て公言して、いろいろ悪さをしかけて来る相手には、対処の仕方もはっきりできるし

考えようによってはフェアプレイの精神がある、って言えるかもしれない。

自由競争社会だったら、法や倫理的な常識を犯さない限り、相手を打ち負かして自分

の利益を追求することも許されているだろうし、経済活動に限らず、そういった競争

意識をもって努力することは悪いことではなさそうだ。

ただ、日常社会の中で友だちはとりあえず味方、って考えたとして、敵でも味方でも

ない人と、なんとなく気の合わない人などに対して、敵、って感じてしまった場合、

その人がやったり言ったりすることが、自分に対する悪意だ、って感じることができ

るわけで、そうなると、坊主にくけりゃ袈裟までにくい、ってとこまで行くことがあ

るんだけど、そうなると、お互いさまで、こっちが敵だと思ってる相手の方もこっち

のことをやな野郎だ、って感じてるはずで、それはいつそうなったかは、ある時の誤

解から来てることも多いんじゃないかと思うんだけど。

人には人それぞれの事情、ってもんがあって、それがすぐに理解できることばかりじ

ゃなくて、人は自分の尺度で理解できないものを、無理矢理まとめようとすると、わ

けのわからないやな野郎だ、ってことにもなりかねないのだ。

それが極端になると、ほんとに敵同士になり、それの極端な例が戦争の殺し合い、っ

てことになるのだ。

自由競争の敵味方ってことで進歩し合うんならいいことだけど、そういった枠を離れ、

相手を憎むような形の敵ができるなら、それはどっかにコミュニケーションのゆがみ

と誤解がある、って考えた方がよく、それを解消する努力を全力でやるのがいいはず

なのだ。

用もないのに米国まで行って大統領に味方アピールしようとして断られたりした安倍

首相、尖閣諸島に自衛隊常駐させて敵に備えよう、って、敵味方の行動原理は、小学

生にでも考えつく短絡発想なんであって、政治家に能力とその発揮を期待されること

は、もっと他の理解を深めあう仕掛けを考える、ってようなことであるはずなのだ。




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