●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさんが日本人の「宗教心のおおらかさ」を体現しました。



シリーズ 信仰心

クリスチャン

私の家から五分と離れていない所にプロテスタントの教会がある。

以前、アメリカからやってきたという若い女性の研修生がその教会に寄宿している間だ

け一般の人向けに英語講座を開いたことがあった。当時、私は英語に燃えていたので、

早速入会した。

天井の高い十字架の飾られた教会の研修室で生徒はたったの四人の小世帯でスタート。

生徒が少ないのは授業が夜だったからで、他の三人はサラリーマンだった。アメリカ人

の先生は日本語が話せず、いつも当番らしい日本人のクリスチャンがついていて、コー

ヒーを出してくれたりした。

面白かったのは授業の始めと終わりにお祈りをすることであった。手を組み頭を垂れて、

世話役の日本人クリスチャンが日本語で行う。

例えば、「天の神様、このような英語を学ぶ素晴らしい時を与えてくださりありがとう

ございます。私達はもてる力すべてを出して取り組んで、新しい知識と体験を身につけ

ます。どうか実りある成果が得られますようにお導きください。神の御名によって、ア

ーメン」という風に。

お祈りの内容は授業に対する心がけや処し方にまで及び、自分たちの行動すべては神の

御心のままにと感謝の言葉でまとめるのだが、そのまとめ方や大仰な言葉遣いがうまい

のには感心した。クリスチャンは総じて話が上手なのは常に祈りを自分の言葉で作文を

して表現しているからかもしれない、などと想像した。

話はそれてしまったが、私は最後に大きな失敗をしたのだった。

それはその研修生である先生がいよいよ帰国するという日が近づき、講座が終わろうと

していたとき、私はすっかり親しくなった先生を鎌倉見物へ招待しようと思いついたの

である。

鎌倉ならば近いし、風光明媚で日本らしさも味わえるし、いい思い出になるだろう、と

単純に考えた。

その日、先生は心なしか浮かぬ顔をしていた。私の英語力では微妙な心の内を聞く力は

なく、ままよ、とばかりに予定通り鶴岡八幡宮や大仏様に案内したのだが、先生は決し

て近くには寄らず遠巻きに見るだけなのであった。

気に入らないのかしら、と不審に思いながら、私だけそこそこにお参りを済ませ、二人

で気まずい食事をするとその日の行動を早めに切り上げた。

後日、先生からサンキューノートを頂いたが、それには体調が悪かったことが記され、

詫びの言葉が添えられていた。

そのとき私はアッと初めて気がついたのだった。アメリカ人である先生は、もちろん神

社仏閣に手を合わせる習慣はないのだろうが、そんなことではなくキリスト教は偶像崇

拝をしてはいけないのである。キリスト教は他宗教を排除する一神教なのであった。

うかつにもキリスト教のなんたるかも知らず、鎌倉へ案内した私は無神経だったと悔や

み、苦い思い出となった。


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