6/18のしゅちょう             文は田島薫

(人生のハイライトについて)

先日のニュースで中高年の数人の登山隊がマッキンレイで雪崩に遇い、生還したひと

りを除いて行方不明とのことだった。何十年の登山のベテランで念入りな準備もして

ても冬山は常に予期できない危険がつきまとうようだ。

だったら、そんなとこへわざわざ行くこたないじゃないか、って私なんかは感じるん

だけど、山好きの人にとっては、危険だと言われてても行きたいんだろう。私だって

危ないからやめろ、て言われてもバイクで長距離ツーリングしたりしてたわけだから、

危険だという理由だけでは人の行動を止めることはできないのだ。

ま、必ず危険がある、ってことでそれの確率や危険度が増すほどそれをやる人数は減

るんだろうけどゼロにはならず、安全策を十分にしたり自己能力を高めたりすれば、

自分だけはまず大丈夫だろう、って思ったりもするだろうし。

極端なことを言えば、危険はどこにでもあるわけで、ぼーっとしながら道路歩いてる

より注意しながら岩山登る方が安全だ、って言い種にも一理はある。

とにかく、絶対安全じゃなければ行動しない、って言っちゃったら身動きできないわ

けで、そんな不確定な安全性よりも、やはりやりたい、って思う心こそをまず尊重す

るのがいいんだろうし、そうした気持ちでやったことなら、最悪、命を落としたとし

ても、少なくとも人からは、本望だろう、などと感じさせることができるのだ。

で、人は年を取った時に自分の昔話をする場合、それの中心になるテーマはたいてい

自分が志したりしてがんばったり挫折したりした苦労話、ってのが多いわけで、その

がんばりが成功した場合はもちろん、たとえ最後まで失敗だったとしても、や〜大変

だった〜、ってけっこう嬉しそうに話すことが多いんじゃないかと思うのだ。

けっきょく、自分にとってやる価値があることについてがんばった、ってことが自負

心として快いのだろう。そういった話のテーマこそはだから、当人の人生のハイライ

ト、ってことになるんだろう。

だから、自分のやってることに価値を見い出してるならば、どんなに辛くてもうまく

いかなくても、それから逃げない限り、喜びの元を作ってる、ってことになるはずな

のだから、そんな情況を自覚したなら、やあ、自分はなんて幸せもんなんだ、って思

うのがいいのだきっと。




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