5/28のしゅちょう             文は田島薫

(自然とのつき合いについて)

人生も後半を過ぎて来ると、できるだけ時間を有効に使ってできれば何か意義のある

ことをなし遂げたい、って思ったり、つまらなくて不愉快な時間よりもその逆の時間

を増やして行きたい、ってだれでも思うだろう。

人のためにもなる何か意義のある発展性のあることをやり続けて、それが自分にとっ

ても気持ちよく楽しく感じられたらベストなんだけど、とりあえず人のためにもなら

ず意義もありそうに見えないことでも、自分で心から快適に感じる時間は増やしたい

もんだ、って考えた時、じゃ、自分にとってどういう時間がそれにあたるか、って言

うと、心身が健康であることは大前提だけど、好奇心や向上心を満たす、ってことも

前提として、もっと生理的な快、不快のレベルで考えると、どうも、私の場合、いわ

ゆる風水にかかわるような自然を抜きにはできない気がするのだ。とは言っても別に

私は風水の勉強をしたわけでもなくて、ただそういったもんが心身に与える力っても

んは確かにあるな〜、って直感で感じるだけなんだけど。

もっとも、例えば陽が遮られて風が通らないような陰気な場所を好む人はそうはいな

いだろう、ってことではほとんどだれでもそうなんじゃないかって思うんだけど。

そういった光や風や緑や水の流れがいいバランスで整った環境で人は快適な気分にな

る、ってことは多分事実なのだ。だから、ただなんでも自然だったらいい、ってこと

にはならず、手つかずの原生林じゃ人間は(現代人は)居心地悪いわけで、たいてい

は人間の手が入った自然の方が快適なはずなのだ。

で、自然といっても、例えば、住環境などのようなものもそうで、自然素材で作られ

た雨漏りするようなバラックより、プレハブでも雨風の入らない家のが快適だろう。

でも、そうやって、利便性ばかり追究した結果、住居は自然素材よりも人工樹脂など

によったもんばかりになってしまってるわけなんだけど、そういった住環境はどっか

気持ちにしっくりこない、どっかバーチャルな味わいというか、例えば、外で実際に

サッカーボールを蹴りあうのと、室内のテレビでサッカーゲームする違いのような。

やはり、住居もできれば、自然素材の方が気持ちいいに決まってるのだ。

雨漏りは困るけど、多少エアコンが利かなくても、夏はそこそこ涼しく冬はそこそこ

暖かな木造住居は、住むほどに心身の生理と調和してくる気がするのだ。

これは感じ方の問題も含んでいるんで、反対する人も多いかもしれないんだけど、古

い木造の家が粗末に見えても、もし雨漏りもなくそこそこ丈夫だったなら、私にはモ

ダンなスタイルの新建材の家なんかより、住みたい、って気にさせられるんだけど。




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