10/15のしゅちょう 文は田島薫
(豊かな時間について 2)
前回、豊かな時間、ってもんはどんなもんだ、って話を始めて、人それぞれだけど、
私自身がそう思える時間、ってものは、自分の頭で問題を感じたり考えたり練習し
たり自然や人と生で対話したり、かけがえのないたったひとりの自分(そんなたい
そうなもんでなくても)、ってもんを深く実感できた時だ、って尻切れトンボのよ
うな感じで終わってしまったもんで、今回はもうちょっと具体的に。
まず、人と生で対話、ってことについて、だれだってたいていはいろんな人と生で
話ししてるもんだろうから、それがどうした、ってことになるだろうし、人と話し
してても、なんだか早く切り上げて1人になりたいもんだ、って感じるようなら、
それは豊かな時間とは言えないはずで、じゃ、たったひとりの自分ってもんを実感
できた対話ってもんはどんな場合か、って言うと、自分のふだん疑問に思ってるこ
とに答えのヒントを感じさせるものだとか、自分が共感する理想のような考え方な
り、自分がいいな〜ってしみじみ感じ入るような人や自然の状態のイメージを現出
させるような対話。自然との対話は、そのいいな〜、ってものそのものを感じる時。
いいな〜、って中には、たったひとりの自分であって、同時にみんなといっしょで
ある自分と自然や宇宙とのつながり、といった全体性や調和を感じる場合か。
そういったつながりの実感の中で、今の自分にできることをやってみるとか、今の
自分ではできないけどやれるようになりたいことを準備したり勉強したり練習した
りすること。親がいるなら親のために、子供がいるなら子供のために、妻や夫がい
るなら妻や夫のために、一生懸命働いてる人は充実してるんだろう。もし、それが
ないなら、他人のために、世界平和のために、って言ってるうちにどんどん気持ち
が薄くなって行くかもしれない。ま、けっきょくは、納得する自分の気持ちのため
に、ってことになるんだろう。じゃ、その納得する自分の気持ち、ってもんはどう
充実させて行けるのか、って、どうどうめぐりのような話になって来るけど、けっ
きょく、ひとりの時も、ひとつひとつの事象に全身で感応し、全身で考えて、自分
で充実した時間を過ごすしかないんだろう。って、こんなこと書いてなんになるん
だ、ってことなんだけど、こんなこと書きたくなったのは、昨日たった1行の詩を
読んだ時に、全身で充実感を感じたからだ。豊かな3秒の時間。
戻る