5/23のしゅちょう             文は田島薫

(死の重さについて)

当たり前の話なんだけど、大震災と津波で膨大な数の人が亡くなり、それをだれもが心

のどこかで痛みと感じてるとして、それは亡くなった人の数が多いから、ってことだけ

によるのではなくて、亡くなったのが自分の身内や友人だったら、って知らずに想像力

を働かせてるからだろう。

自分と心を通じることができない、何のかかわりのない人、って感じたら、だれが何人

亡くなろうが何も感じないはずだから。

これは、現実に実際に親子や兄弟や仲間、といった関係であったとしても、心が通じて

なくて、反感や恨みを感じる関係であったら、その相手が亡くなることに悲しみも感じ

ない場合も多々あるだろうけど(反感や恨みばかりであった相手の死で思わぬ悲しみが

襲って来る場合もあるようだから、実はこれはどうも一筋縄には行かないようだ)、全

く赤の他人なのに、テレビなどで、疑似知人のような気になり、その生き方や感受性や

優しさなどに感動させられていると、その死にショックや悲しみを感じることもある。

だから、人の死ってものが自分に深く感じるかどうか、ってことは、その物理的な関係

性よりも、内面での共感の深さによるのだろう。

しかし、亡くなった時にただ悲しめば、それが深い関係だったとばかりは言えなくて、

全く悲しみのようなものはなく、亡くなっても、全然亡くなった気がしない相手、って

いうのもある。

それは、自分に共感やら新鮮な学習をさせてくれるたくさんの著書を残してくれた有名

人とか、身近な人でも、直接の触れあいというよりも、少し哲学的な感性(?)を刺激

してくれるような人の死、その当人が死といったものを全く自然なもの、ただ平然と受

け入れるだけのもの、って考えてて、治せなかった病などで、それが当人と私にも肯定

的に納得できる場合、その人の死後でさえ、いつもその人の問いかけや、謎が、身近に

感じられる時、なんだか、その人がまだ、全然死んでない、って感じられるんだけど、

これはひょっとすると、死の重さ、というより、死の軽さ、って言えるかもしれないわ

けで、ものごと重いだけがいいわけでもないのだ。




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