●連載
がたやま娘のひとりごと      文はこんのたえこ


地方文化都市山形で、世界の様々なことを感じ考えている
賢くうら若い(?)娘の話を聞こう、疲れたおじさんおばさんたちよ!

たえちゃん、自分とこでさえこれだから、ましてや、って。



被災地の隣にて その7

2回目の大きな地震。また停電でガックリした。もちろん、朝ご飯も炊けていなかった。


こんな状況なので、その日は出勤しようかどうか迷ったけど、おそらく皆さん出勤して

いるだろうと思って、私もイヤイヤながら出勤の準備をした。


そうしたら、朝の8時過ぎになって通電した。出勤しない理由が無くなってしまった。

イヤだけど、ますます出勤しなくてはならなくなった。


山形はこのくらいで済んだけど、お隣の仙台では違う。


1か月近く経っても、ライフラインが復旧しないところもある。やっと少しずつ復旧し

てきたところに、この大きな余震だった。せっかく復旧しかけたライフラインが、また

途絶えてしまったところも多かったようだ。このことによって、復旧もさらに遅れる。

こういう心のショックは、大変に大きい。


1週間どころか、1カ月、まともにお風呂に入っていない人もいる。良くてシャワーを

していても、湯船に入っていない人もいる。精神はストレスを抱えっ放し、体も緊張感

が抜けない。こんな生活が、長く続いて良いはずが無い。


また、私には福島県南相馬市の友人がいる。


3・11の数日後、とある避難所から連絡があった。「原発の汚染が心配なので、避難

区域にはなっていないんだけど、もっと遠くに避難しようかどうか。」という相談を受

けた私は、すぐさま「早く、もっと遠くに避難しろ。国のニュースは信用ならない。20

年、30年帰らないつもりで避難して。」と言った。山形に来ることも勧めた。「とにか

く、生きて。家族みんな無事に生きて。」としか言いようが無かった。


案の定、そうだった。友人が避難していた場所は間もなく強制避難区域になった。最初

っから避難しなきゃならない場所だった。


後日、友人は奥さんと子供を連れ、取手の親戚の家へ避難したと連絡が入った。そして

1か月経った今は、福島の勤務先から出勤命令が出て、奥さんと子供を取手に残したま

ま、自分だけ福島に戻り、避難区域から23kmの親類の家に泊まらせてもらって通勤

していると。友人の自宅は20km圏内なので、戻れない。


「もう、福島には戻らないつもりでいる。自分たち大人はいいけれど、子供たちのこと

を考えたら、福島では暮らせない。国も信用できない。これから先、どうしたらいいん

だろう。」と言っていた。


100km離れた山形でも、少ないけれど、放射能の数値が出ている。「ただちに人体

への影響はない」と言うのはもう聞き飽きた。日本は文化国家じゃなかったのか。


被災地の隣で、東北人のひとりとして、私には何ができるんだろう?と毎日考えている。


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