●連載
がたやま娘のひとりごと      文はこんのたえこ


地方文化都市山形で、世界の様々なことを感じ考えている
賢くうら若い(?)娘の話を聞こう、疲れたおじさんおばさんたちよ!

たえちゃん、叱られて何か気づいたようです。



・・・そして叱られる・・・

その週のレクチャーの前に、先生から絞られた(汗)

講義のトレーニングに参加するのは当たり前なんだけど、「その他の勉強会への出席が

無いのはどうしてなのか?」と。

確かに講義トレーニングの他にも、小さな勉強会があって、勉強をしたい人が参加する

ものもあるのだ。「トレーニングをしているならば、勉強会にも積極的に参加してほし

い」ということなのだった。


確かにおっしゃる通りだ。

私が参加しなかったのは、「どうしようかなー」と迷っているうちに時間が過ぎてしま

ったからなのだった。何で迷っていたかと言うと、「内輪盛り上がり」がイヤだったか

ら。よく参加する古いメンバーの中には、自分たちだけで盛り上がってしまって、他の

人への気遣いが感じられないことが多々あったから。

お金を払って、わざわざ時間を割いて仙台へ行き、そういう人たちに場の雰囲気を持っ

ていかれてしまうのは納得できないからなのだ。


私は純粋に勉強がしたいから、そういう雑多な環境に参加するのを、あえて避けていた。

しかし先生はその場で、そういう理由は認めなかった。

その後、個人的にじっくりと話をしたけれど、とにかく一切そういうことは認めなかっ

た。「あなたはどう思っているのか」「分かるように噛み砕いて説明してほしい」「な

ぜそういう考えと行動になるのか、教えてほしい」と何度言われたことか。

東北の人じゃない先生は、とにかく口調が強い。そしてこういう内容は、先生のことも

良く知らず、少し気の弱い人だったら、もう何も言えなくなると思う。


先生がそういう理由を認めないのは、「主観的でないから」なのだと思う。

「誰々のせいで何々が出来ない」という理由は、主軸がズレているから理由になってい

ないということなのだ。そういう考えに気付いて、新しい行動を選択しろと言うことだ

ろう、と勝手に解釈している。

それに、話をしている私自身も、自分が作った小さな枠で考えて行動していることに気

付いた。

「考えを改めるのは難しい」とはよく言ったもので、確かに自分の理解できる範囲で生

活し行動するのは、安心なのだ。

しかしその範囲を超えたところに、新しい人との結びつきがあり、新しいものを得る機

会が与えられるのであろう。


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