9/27のしゅちょう 文は田島薫
(世界と遊ぶ方法について)
生まれて間もなくの子供は、見るもの聞くものみんな初めての経験なもんだから、自
由にさせておくと、ずっと夢中になって遊んでるもんのようだけど、これが少し大き
くなってくると、あまり単純なことでは楽しめなくなり、友だちと一緒になって、ど
っか別の場所へ探検に行ったり、ルールのあるゲームをやったりして楽しんだり、友
だちづきあいが上手でないと、何か大人と同じような遊べる道具を見つけなくてはな
らなくなる。それは絵だったり、楽器だったり、模型作りだったり、読書だったり。
そんなわけで、一概に子供は遊びの天才だから、ほっといてもみんな退屈しない、な
どと大人は考え勝ちなんだけど、そんなことはないのだ。現に友だちの少なかったこ
の私は、絵なんかよく描いてたものの、大部分の放課後の時間、退屈を味わうことに
時間を浪費したもんだった。
読書の楽しみ方とか、人間関係やら世界の仕組みの謎について調べたり自分で考えた
りする楽しみや、心を掴むような種類の音楽や映画などの存在を初めて知ったりして
るうちに、汲んでも尽きない世界の豊かさといったもんを少しづつ実感して来たのだ。
で、だいぶ年令の行った現在が今までで一番楽しいんじゃないか、ってぐらいの気分
なのだ。
それで結局、われわれはしなくてはいけない義務のようなものだけで生きる必要はな
くて、「遊び」が大事なんじゃないか、ってだんだん思うようになったわけなのだ。
もちろん、自分は遊びなんか必要ない、仕事が大好きだから、仕事だけしてればいい、
って言う人もいるだろうけど。この、「遊び」って定義を自分の趣向に逆らわずに自
由にそれを追求享受すること、ってことにしたとしたら、仕事=遊び、って場合も成
り立つわけで、遊びながら結果的に社会的貢献もできるとなれば、これは理想の遊び
の形態かもしれないけど、社会的貢献は必要条件ではないのだ。
もう、だれのためにもならないし、こんなことやって何かおもしろいの?って、それ
をわからない人がどう思おうが、当人が夢中になって楽しんでることがあれば、それ
は、知らずに世界の真理の一部と繋がれた、ってことなのだ。
その自分の遊びのテーマについて、自分の全身全霊を込めて行けば、何かの独自な表
現にならざるおえないわけで、それが仮にゴルフだったとして、世界的プレイヤーの
スコアにほど遠かったとしても、仲間の中で上達を実感したり、自分自身の目標を達
成したら、世界的プレイヤーと基本は同じ喜びのはずなのだ、却って世界的プレイヤ
ーの方が切迫感のため遊びきれなかったりも大いにありそうだし。
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