10/4のしゅちょう             文は田島薫

(感性の磨き方について)

芸術一般、その他あらゆる技術一般において、その技を極めた人の感性は凡人のそれ

とは違うものになるはずなんだけど、それを修得するのに、例えば凡人でもある程度

は修業で可能になるとしたら、どんなことなんだろう、って考えてみた。

一番一般にされてることと言えば、達人の技に近づくように、その易しいものから真

似をして、手や身体の動きを似たようなものになるよう慣れさせる、ってことがある。

そうすると、難しかった動き方もなんとなく同じようにできるようにはなってくる。

でも、それから先、達人の域までなかなか行けないのは、そこに、感性の表現といっ

たものの必要性があるためなのだ。動きだけ真似ても、達人が感じたと同じような感

性が働かない限り本物にはならないわけだ。

というわけで、じゃ、その感性を鍛えるにはどうしたらいいのか、ってことなんだけ

ど、一般には、「良いものを沢山鑑賞する」ってことが言われていて、そういったこ

とに励んでいる人々はこれまた沢山いる。

で、じゃあ、そういった人々の感性はみんな素晴らしいものになってるか、って言う

とこれはだれにもわからないことで、彼はいいけど、こっちの彼はだめだ、などと、

言い合ったところで、それを証明する手立てはなさそうだ。

じゃ、この私の文章の目的も果たせないことになるわけなんだけど、これは、あくま

で私の独断による仮説なんだけど、感性というもんは、身体の生理的な機能のわけだ

から、まずその大元の身体が健康でなければならないはず。でも、これに関しては、

一般鑑賞に限ってのことで、病気勝ちの芸術家が独創的な作品をつくることは多々あ

るわけで、しかし、その表現はその病気の気分に影響されるはず。

で、とりあえず健康だとして、「良いもの」をどん欲にどんどん鑑賞したり、食芸術

(?)であれば珍味をじゃんじゃん食べれば感性が鍛えられるか、って言えば、どう

なんだろう。人の感覚はどんどん刺激の強いものを求める傾向にある、って学説もあ

るようで、そうなると、淡白なものの味覚に鈍感になる、ってこともありえそうだ。

味覚に限らず、他の芸術にも言えるとしたら、ひとりの人間の感性が十分に機能する

ためには、その当人の個体としての趣向傾向や、ふだんの「摂生」といったもんも影

響してくるはずなのだ。

目や耳や舌が「肥え」過ぎたため、そのへんにあるなんでもないものの美しさや、心

地よさを感受できない感性と、全身でそれを感受し喜ぶ感性とどっちが豊かか?って

聞かれたら、どっちなんだろう、ってとことで、どうなのか結論は。




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