思いつくまま、気の向くまま 文は上一朝(しゃんかずとも)
シャンせんせいのガンリキエッセー。
シャンせんせい、新しい愉しみ方を発見したようです。
傍 線
【傍線】田島大人の愛読書広辞苑によると、『強調し、または注意を向けさせるために、文字の
横にひく線』とある。岩波国語辞典には『注意・強調などのために文中の一部に、文字にそって
引いた線』。ところが、三省堂大辞林は、『字のわきに引いた線。サイドライン』とそっけない。
これでは形を説明するだけで意味を説明していないので辞書とはいえない。これだから一冊の辞
書だけひいてよしとするととんだ恥をかく。
本はきれいに読むもの、折り曲げ書き込みなんてとんでもないと育てられた。おかげで文芸春秋
一冊読んで、そのまま書店の棚に戻してもわからないという特技を身につけた。
この特技もときには禍を呼ぶ。参考書に傍線をひかなかったので学業はだめであった。
古本を漁っていて、どんなにほしい本に出会っても書き込みのあるものは買わない。メモの書き
込みは論外だが、傍線のあるものは、どうしてもそこに目がいってしまい、その本の読み方を強
いられるようでこまる。
ある日、この奇癖に変化が生じた。それも、失敗がもとで。
戦前のめずらしい写真技術書をみつけた。本文の半分くらいは、書き込みと傍線で埋め尽くされ
ていた。本来なら目もくれないものだが扉に書かれた前の持ち主の名前にひかれた。前橋市荻原
某とある。詩人萩原朔太郎も一時写真に凝っていたことがある。彼も群馬の人だ。もしかすると
朔太郎はペンネーム、大変な掘り出し物かもしれない、と思って買った。ところがよく調べてみ
ると荻原違いであることがわかった。安くないのでとんだ散財だ。
荻原某氏は大変な勉強家である。戦前の地方都市ではこのように高価な本は簡単に手に入らなか
ったであろう。書き込みも的確で実によく研究をしている。
そのうちにこの荻原某氏に親近感がわいてきた。一冊の技術書に精魂をこめて勉強をした青年の
姿を想像してしまう。
それから後、書き込みがある本もたまには買うことにした。
傍線の引き方ひとつから、旧持ち主の人柄を想うのもおもしろい。
乱雑にひいたもの。定規を使ってひいたもの。
昔の風俗や評伝を書いた本には間違いを正した傍線や書き込みが多い。
「今どきの若造はものを知らん。俺の方がよっぽど詳しい」と優越感にひたる顔が見える。
大損のおかげで、本を読むほかに傍線を読む楽しみが増えた。
古書は書き込みがあると極端に安い。一挙両得である。