3/29のしゅちょう             文は田島薫

(CGと想像力について)

CG(コンピューターグラフィック)が映画やテレビのアニメやコマーシャルにどん

どん使われて目にすることが多い現代、その豊富なイメージの映像は豊かな想像力の

産物だと言えるのだけど、じゃ、その想像力の持ち主はだれか?、って言うと、今や、

その類型化し複製化された映像のオリジナルを特定するするのはけっこう難しく、た

とえば、アニメのキャラクターやら、アクション表現やらの、こういったパターンの

表現を最初にやったのはだれそれだ、ってたどることは可能にしても、少しづつ後に

続く者が自分独自の表現を加えたりもすればそれも、その者の想像力と言えるだろう

し、そういった複数の人間によるいわばCGムーブメントといったような共同作業が、

そういった表現を成り立たせているわけで、圧倒されるような過剰なイメージに、そ

の想像力がすごい、って個人的な力のように賛美する必要はないのだ。

で、そういったムーブメントにかかわってる人々は知らずにそういった映像表現を自

分の感性の中に取り入れて行くわけだから、自分自身の感性ってものを十分に鍛えな

かった者でも、それらしい表現がある程度できたりするわけで、それを、自分の想像

力だ、って勘違いすることもできるのだ。

それでも作り手の側なら、想像力について、自分の問題として考えることができるの

だけど、問題は、ただそれを享受するだけの一般人のそれだ。

そういった過剰なイメージを後から後から受動的に見せられる当人はあたかも自分の

想像力が増してるように感じるかもしれないんだけど、それは真逆なことで、自分の

内から生まれてくるささやかな、しかし貴重な独自の想像力の発進路の出口をふさい

でいることになるかもしれないのだ。

目に見えるものはすべて細かく精細にすべて表現して見せるほど、芸術的価値から遠

ざかることも多々あるわけで、たとえばリアルなテクスチャーと立体感で表された文

字が、ただそのへんに転がってる道具のようなメッセージを伝え、ぼけたたよりない

モノクロで表された文字が無限の宇宙のメッセージを伝える、というふうに。




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