●連載
がたやま娘のひとりごと      文はこんのたえこ


地方文化都市山形で、世界の様々なことを感じ考えている
賢くうら若い(?)娘の話を聞こう、疲れたおじさんおばさんたちよ!

たえちゃん、欧米映画は好きだけど、そこに巣食う欧米目線の傲慢さに怒ってます。



視点の相違

先日のアカデミー賞で問題になった映画。

イルカ漁の盗撮。もし本当にそういうことを行って受賞したというのなら、アカデミー賞

の価値自体が失墜している証拠であろう。

そのような映画を賞賛するというのなら、いつものごとく、独善的な欧米目線での価値観

の押付けである。私たち日本人は、そのような視点から派生したモノについては、無理に

価値を見出そうとしなくてもいい自由もある。たとえ映画界で価値があると言われるアカ

デミー賞だったとしても。

日本人は環境的にも文化的にも「異なるものを受容し、適応していく能力」が高い民族な

のではないだろうか。簡単な例で言えば、「神棚と仏壇が同じ屋根の下に存在する」こと

である。要するにあいまいというか、言い方を換えるなら、キャパシティが広いのだ。

対して欧米はどうだろう。

平均的な家庭で、イエス像と仏陀像は同じ屋根の下にあるだろうか。意見の相違がある場

合は、「相手の立場を考えること」よりも「自分の意見を主張する」ことに注力される。

それは絶対的な価値観の相違なのだ。

歩み寄ることは可能だけれど、当事者の立場に立つことは不可能だ。

お互いに歩み寄りを希望しない場合は、相違点の距離が縮まることは無い。

今回のケースでは、報道されていることが事実だとするならば、その作品を制作したスタ

ッフ、総じて監督が、私たち日本人の立場や考えを無視し、歩み寄ることも無く激しい自

己主張をしたのだ。アカデミー賞はその一方的な自己主張を認めたのだ。


欧米主導型の世界基準に、我々日本人特有の「思慮深さ」は全く通じないことを肝に銘じ

ておくことが肝心。


クジラもイルカも食べるが、クセも脂も強いので、ステーキのように大量に食べられるも

のではない。旬の物として、ほんの少し汁物にして頂くくらいのものだ。そして「クジラ

汁」とか「イルカ汁」などと呼んでいて、中身がどちらであろうと構わないのだ。庶民は。

「水銀がどうの」と彼らが騒ぐほどの量を食べないことは、知らないのだろうか。


私の視点から言えば、彼らは完全に日本人と日本の文化を無価値なものとして馬鹿にして

いる。腹立たしい限りだ。それと同時に、彼らのような無教養な人たちが存在し、独善的

に活動していることも知らなければならないとも思う。


ちなみに、映画観てないけど。観たいけど、お金を払って観たい作品じゃないからね。



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