2/22のしゅちょう             文は田島薫

(論理の限界ついて)

よくふたりの人間が論争したりすると白熱して、おたがいが興奮しながら、自説を主

張し合い、なんで、こんなに明白な真理が納得できないのか、ってお互いに責め合う

光景を見ることがあるんだけど、こういったことがなんで起きるかというと、これは

当たり前のことなのだ。

数学や物理学などの理系のテーマなら、そんなことも少ないだろうけど、文系のそれ

は、はっきりした白黒をつけるってことはなかなか難しく、だれでも自説の論理を組

み立てる場合は自分の収集したり認識したデータを基にするわけで、それの取捨選択

の仕方はまた人それぞれの人格やら受けた教育やら、育った環境やらで違って来るわ

けだし、その論理の主題の焦点の置き方によっても結論が違ってくるわけで、あらゆ

るものごとの論理による判断っていうものは、同一の条件下で、仮説的に一致をみる

ことがある、ってぐらいのことで、その時の条件下以外の未知の条件下ではいくらで

も異なった結論が成り立つ可能性があるわけなのだ。

だから、いくつもの異なった視点からの論理を並べ、それでその中での相対的に有効

と思われる論理と結論を選ぶのが人々の話し合いといったもんのわけで、筋道が立ち、

反論の余地がないようなうまく組み立てられた論理と結論や、全会一致といった状況

は警戒するべきで、そういった場合は結論を先送りして、反対意見が出尽くした後に

再検討すべきなのだ。

だから、例えば、われわれ大衆がマスコミなどの情報やメッセージをうのみにして、

当然のことだ、ってふうに、ひとつの結論を声を合わせて支持したりするような場合

は、とんでもない間違いを犯す可能性も大きいので、よく自分の頭を使って再考する

クセをつけるのがいいのだ。

なお、この話の内容はほぼドラッカーって人の話の受け売りですので、うのみにする

前に再考されるのもいい。




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