2/15のしゅちょう 文は田島薫
(忙しさについて)
現代のたいていの人々は忙しい、ってことがうれしいらしく、人にはお忙しいでしょ、
って褒め言葉のように使い、いや〜とても忙しくて、って少し自慢気に言ったり、っ
て光景によく出会う。 忙しい、ってことは、暇、ってことにくらべれば、活動的、
ってことなわけだろうからとりあえずいいことだ、って考えるからだろう。
その忙しさ、ってものが自分の好きなことや社会のためになることで、心から充実を
感じてるんであるならすばらしい生活に違いないだろう。でも、ただ忙しい、ってこ
とそのことだけで安心してるとすると、ちょっと空しい気がする。
生活費をかせぐために、あまり楽しいわけでもない仕事だけど忙しく働かざるおえな
いんだ、ってことならそれも仕方ないことだし、必要からくるそれなりの充実感もあ
るような気もするんだけど。
例えば車が大好きでそれを買い替えたり維持したりするのに金がかかるもんで、仕方
なくバイトをかけもちして夜遅くまで働いてる、って言うのも、唯一の趣味のために
それなりのがんばりに精が出る、ってことならそれも批判されるべきこととは言えな
いかもしれないし、不動産をいっぱい持ってる金持ちで、毎月の家賃収入の遅れやら
設備の維持管理や補修やセキュリティや税金について、日夜気にかけ、取扱い業者か
ら報告をチェックしたり、でけっこうな時間を忙殺されたりしても、かせいだ金でぜ
いたくな海外旅行を楽しめたり高級住宅や家具やらを買えれば、それらを満喫する時
間がたとえわずかになっても、所有の喜びがなにものにも代えがたい、っていうので
あればそれもその人の勝手だろう。
でも、ただ忙しく働くことが一番いいことで、それでもちろん人より余計にかせぐこ
とがいいこと、で、それでなんでもいいから人よりいい社会的地位や車や服や食事を
することが目的だ、ってみんなが考えるなら、どんぐりの背比べ的果てしのない競争
になり、人生の時間が空しく浪費されることだろう。
大きなお世話だけども、自分にとって好きなことは何だとか、自分はどういう種類の
評価をされる人になりたいのか考え、単なる忙し競争から離脱するのも手だ。
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