思いつくまま、気の向くまま 文と写真は上一朝(しゃんかずとも)
シャンせんせいの「ぼけのたわごと」、タイトル変えました。
シャン先生じっとなにかを見守ってます。
落ちない板
ベランダ越しにみる銀杏の木に、一枚の発泡スチロールの板がひっかかっている。
およそ50センチ四方のその板は暮れの大風で飛ばされてきた。その後どんなに強い風が吹
いても落ちるどころかますます堅固にとりついている。
いつ落ちるか、いつ落ちるかとその景色を眺めているうちに、オー・ヘンリーの『最後の一
葉』を思い出した。
オー・ヘンリーといえば、貧しい夫婦のクリスマスプレゼントにまつわる話『賢者の贈り物』
もいい作品だ。夫は妻の自慢の長い髪を飾るべく、大切にしていた懐中時計を売って鼈甲の
櫛を買う。妻は夫が大切にしている懐中時計の鎖を買うために自慢の髪を切って売る。さて、
クリスマスの当日は…。
人の思惑とか思いやりについての難しさをこの話は教えてくれる。
思惑と書くとなにやら悪い事を連想するが、相手が喜べば自分も嬉しいという思惑もあって
よいだろう。思いやりはどうか。相手が求めていないことを思いやっても思いやりにはなら
ない。
政治もそうだ。政府は時計を売る、ならぬ多額の国債を発行して国民を幸せにしようという
思いやりで動く。国民はたよりない政権に対して、髪の毛を売る妻のように自分の大切なも
のを少し犠牲にしてでも幸せを味わいたいという思惑がある。
この作品は、深い意味を持つという。「賢者は自分のいちばん大切なものを犠牲にして相手
をよろこばせる」と結んでいるが、それはキリスト教をよく知らなければわからない。凡人
は物語からストレートに感じるものを自分の糧とすればよいのだろう。
しっかりと枝にとりついた板を毎日ながめていると、小説とは反対に、なかなか落ちない板
が落ちた時になにか良いことがあるとの勝手な思惑がでてきた。しかし、板は微動だにしな
い。もしかすると銀杏の木にひっかかる発泡スチロールの板は、「世の中それほど甘くない
よ」と戒めの言をもって近所の売れない画家が描いたものかもしれない。