思いつくまま、気の向くまま
  文は上一朝(しゃんかずとも)


シャンせんせいのガンリキエッセー。
シャンせんせいから、マスコミに惑わされる国民へアドバイス。



         

新聞の日曜版に「300文字小説」という投稿欄がある。

本文300字以内、年齢不問、読み切りという条件である。毎週この小説を読むのを楽しみに

している。それは、作者の性別年齢を見ないで読み、作者の人となりをあてるのだ。

あたればわが読解力に酔い、はずれたときは作者を称賛する。


今日も、10歳の女の子が自分の誕生日の気持ちを書いたものがあった。小説とはいいながら

エッセイ風のものが多いなか出色の作品であった。親の手を借りたものか、せいぜい10代の

女の子の作品と思ったら、51歳の男性のものであった。これを読むと小説というものはいか

に自分を殺して他人を書くものであるかを痛感させられる。


この欄の「評」に、ときどき評者は書かれていることをうまくつかんでいないのではないかと

思うことがあるが実はそうではない。このような素人を相手にした評というものは、その良い

ところを見出して評価する必要があるので、作品の構成力のみを評価しない。


劇評にも似たようなところがある。箸にも棒にもかからない舞台を○○には風格がある、○○

が出ると舞台が明るくなる、と書く人がいる。その舞台を観るとなにを言いたかったのかがす

ぐわかるが、そこには俳優を傷つけない配慮がある。また、批評家にはあってはならないこと

だが、俳優の好き嫌いが表に出る人がいる。一般的に観ておもしろい出来でも、重箱の隅をつ

っつくような評をするかと思うと、出来が悪いのに内輪言葉というか専門的な見方でほめちぎ

ることがある。しかし、これは高い位置から見れば正論でもある。

この二つのタイプはどちらが良いとも悪いともいえないが、ただ舞台が明るいと書かれても芝

居が面白いのかどうかわからない。また、出来が良いと書かれて観にいったらつまらなかった

ということもある。「評」に頼って観劇に行く人にとっては迷惑な話だ。

このように「評」というものは書く方にも読む方にも難しいところがある。


政治もそうだ。マスコミという「評」の読み方しだいによっては国の進む方向を誤ることもあ

る。政権という舞台に踊り出てただ明るいだけの民主党は、はたして玄人受けする政治をやっ

ているのかどうか…。国民という観客はおおいに悩むところであります。



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