9/21のしゅちょう             文は田島薫

(幸せの作り方について)

今、世界は歴史的な大不況で、失業者や不遇な人々が増大して、ってマスコミはじめ、

いろんなところで言われ、私だって同様なこと言ったりもしてるわけだけど、冷静に

考えると、そういった言論というものは、より理想的な社会を作ろうとする希望や意

志によって、現在の矛盾を強調するためのものであって、絶対的な情況判断といった

もんではないのだ。だって、あらゆる事物は相対的に評価されるもんなのだから。

かつて、わが国の庶民は食べることがやっとって時代が長かった。平和そうな江戸時

代だって、何度かの飢饉に見舞われたし、そうじゃない時だって、落語の長家の人々

のようなものは、毎日きょう食う米にも苦労し、食べる米があればおかずなんかなく

ても一安心といった生活で、それだって、自分が作った米も自分の口に入らないよう

な小作農民から見たらうらやましい生活だったりして。

吉本隆明さんは、今の大不況についての意見を求められると、今が悲惨な情況だとは

全然思えない、って言った。

自分が今まで一番悲惨でつらい情況だと感じたのは、戦後の食糧難の時だった、って。

だって、若いのに腹が減ってるために階段上がるのにも身体がだるくて言うことをき

かない、って経験や、なんとか食料を手に入れようと、身近な道具や服などを持って

地方の農家へ行き頭を下げて、わずかな米などと変えてもらったりの苦労とか。

今の世の中、食べるものがなくて苦労してる、ってことはまずないだろう、って。

そう言ってるわけだけど、たしかに、経済的にギリギリの情況になったら、役場で生

活保護を申請したり、各地でやってる、ボランティアなどの炊き出しに行けば食べ物

は手に入るわけだから、食べたくても食べられない時代よりは物理的な楽さはある。

でも、かつてのほとんどの国民が貧しかった時代と、今の時代では違う、物の豊かな

今の時代は、仮にきょう食べる物がなかった人がいたとしても、たいてい、はた目に

は一見ふつうの豊かそうな人に見えるのだ。なぜなら、彼のすぐ隣人たちはそこそこ

本当に不自由のない生活をしていたりすることがあるもんで、自分の不遇を共感しあ

うことができなくて不遇を内緒にして小さな見栄を張り合うのだ。

今の時代の、幸せの作り方、不本意に死ぬ程ハードに働かされている人は、働きたく

ても仕事のない人が大勢いることを意識して、労働時間を短くする努力を続ける。

しかし、この死ぬ程働かなくてはならない、って思い込むことは、自己能力を過信し

た人間もよく陥ることで、自分がやらなくてだれがやれる?って思い込む。

実はけっこうだれにでもやれることだったりするのに。

仕事をしたくても仕事がない人は、自分の技術などは十分磨きつつも、それが時代の

矛盾であることも意識して、豊富な自由時間に感謝しつつ、得られる援助はどこから

でも素直に受ける。大芸術家といわれる人々も過去にはたいていそれをやっていた。

ハリーポッターで大金持ちのベストセラー作家になったイギリスの主婦もそれを公的

生活保護を受けながら書いたそうだし。




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