9/14のしゅちょう             文は田島薫

(自由主義の錯覚について)

自由、って言葉はたいていの人々が好きで、一般市民がそれを獲得することは、歴史

上の革命などのテーマになったり、古今東西の文学のテーマにもなってるわけなんだ

し、じゃ、人々が全員自由気ままに行動できたらそれが理想の世界だ、って言って済

ませられれば世話はないんだけど、現実はそんなうまいぐあいにはいかないのだ。

だって、だれか力の強い者が富を一人占めにしたい、それは自分の自由だ、って主張

してそれを実行したら、それが必要で手に入れたい、って考える者が自分の自由にな

らない、ってことが起きるわけで、みんなが自由だけど、それを実現するには力がい

る、ってことならば、まずは、その力を手に入れるための競争になる。

で、それを手に入れる手段が例えば、一流大学に進学できるように勉強する、ってこ

とならば、まさに今の日本国民の現実世界、ってわけで、それが自由競争じゃないか、

それのどこがわるいのだ、って言う人もいそうだ。

仮に競争はよしとして、常に競争に勝つ者は限られた人数の者で、負けた者が多くて

も、負けたのだから多少不足のある生活を強いられてもしょうがない、って考え、そ

の自由競争が世界をよいものにするために役立つのだ、って考えたとしよう。

じゃ、その時、競争して目標とするよりよい世界、って、どんな世界なんだ?って聞

いて、もし、多くの人々が幸せに暮らせる世界、って答えるなら、どっか矛盾が出て

来ないだろうか。

もし、それに矛盾はない、自分は富を追求するけど、恵まれない人々の幸せにも貢献

する事業で、明らかな成果を確認している、って言うのであればいいのかもしれない

けど、世界全体が豊かになれば自然に底辺の人々の暮らしも底上げして行くはずだ、

って安心してるなら、なかなかおっつかないだろう。だって、自由の名の元に桁外れ

の富を独占し続けるだけの者と、生まれた時から教育や医療も満足に与えてもらえな

い貧しい者の双方の格差が過剰に拡大してる現実があるのだから。

自由には、金では買えないようなものもあって、それは万人に平等と言えそうだけれ

ど、それにしたって、生活のために働きづめだったり、金もなく医者にもかかれず健

康を害してるなら、そんな精神的自由も経済的基盤なしだとふつうは難しいだろう。

米国で、オバマ大統領が医療を受けられない人々をなくすための医療保険制度を整備

しようとする案に、自分達の保険には不足がないから無関係とばかり、自分たちの税

金が増えることを理由に、不遇な人々を救うことに反対している人々は、大金持ちじ

ゃないふつうの国民たちかもしれないけど、自分の富の拡充こそが自由だ、って言う

資本家たちと同じで、自由の本当の意味を知らないのだ。




戻る