思いつくまま、気の向くまま 文は上一朝(しゃんかずとも)
シャンせんせいの「ぼけのたわごと」、タイトル変えました。
今回のシャン先生、公のカタチの謝罪のあり方について考えてます。
身分と個人
今月5日、冤罪事件の菅家さんに宇都宮地検の検事正が謝罪をした。
6月の栃木県警本部長は報道陣の前で謝罪したが、今回は地検側の意向で非公開の場で行
われた。警察も検察もプライドの高い職業である。それが一方は公開でもう一方は非公開
で謝罪が行われたことについて感じたことがある。
今回の県警本部長も検事正も事件の当事者ではない。両者とも謝罪をすることには心内に
こだわりがあったことだろう。
ではなぜ両者に違いがでたのか。
県警本部長個人は警察官であり県警本部長は身分である。検察官も身分は検事正といえど
も個人は検事である。
県警本部長は、警察官個人としては思う所は多々あったことと思うが、彼は個人を殺して
身分という立場で公開の場で謝罪をしたのではないか。この考えかただと検事正は個人を
捨てられなかったということになるが、身分というものは個人のもう一つの姿であると同
時に身分が個人を許さない場合がある。もっと言うならば身分が属する組織が個人を許さ
ない場合がある。この検事正の場合はどちらであったのか、そこが知りたいものである。
また、個人的にはこのような謝罪劇には反対だ。たとえ相手が組織であったとしても謝罪
を受けるのは個人である。公開の場ではその感情にもブレーキがかかるだろう。芸能人の
記者会見のように晒し者にならなければならない理由が見つからない。今回のように証人
(弁護士)同席のうえで行えばそれで済むことだ。国民には知る権利がある、などと思い
上がってはいけない。