12/21のしゅちょう             文は田島薫

(経済成長偏重主義について)

不景気だから、なんとか経済を活性化させるように公共投資の額をもっと増やせ、って

民主党政権は経済界などから異口同音に囃し立てられてるわけだけど、いくら公共投資

して公共工事などやったって、基本的な産業の受注構造が変わらない限り、展開は難し

いのだ、だって、投資された業界はとりあえず大企業から潤おうかも知れないけど、下

請けの底まで潤おうほどの余裕はない状況と、下請けや非正規労働者の待遇を野放しに

したままの状況で発注側は思う存分その支払いコストを叩けるわけだし、そうするだろ

う。それでも仕事を得た下請けなどはいい方で、それから漏れる中小零細はたっぷり残

るはずだし、もうかるのは大企業だけ。いくら全体の経済成長率の数字が上がったよう

に見えたとしてもそれは一時的なもんだし、第一その投資の原資は税金と、赤字国債と

いった借金なのだから、それを帳消しにしてなおかつ成長、ってことは難しい上に、そ

れを保障する市場利益を供給する一般消費者である大多数の労働者が貧乏のままなら、

金の使いようがないのだし。

それでも、その公共工事などが、あきらかに人々の暮らしを改善して、生活費の節約に

なるようなものだったらまだいいんだけど、必要性もないもの造って金のない人々から

さらなる出費だけを期待してるような事業が経済成長に役立つわけはないのだ。

そういうのはただ一部の業者それも大企業だけのためのものであって、一般国民の生活

向上といった基本的目的を忘れた経済人たちの自己中的発想論だろう。

新しい技術の産業を育てるのは大事なことだろうけど、ただやみくもにろくでもない物

を量産し続ければいいはずはなく、だいたい、経済成長が大事だって言うのは、その基

本的目的のために役立った物のない時代により有効なもんであって、物が余ってる時代

には、教育とか老人福祉とか雇用均等とか、あらゆる人々のための生活の基本的構造を

しっかり充実させることの方が大事だろう。

みんなで少しづつ収入が減ったとしても、きちんと安い商品が国内で生産でき、すべて

の労働者にそれをする仕事が行き渡り、毎日の生活と将来の不安がなくなった時に人は

安心して物だって買うだろう。

でも沢山の物をしょっちゅう買い替えて、その生産のために労働者の労働時間が長くな

ったりすることによる経済成長などは不要なのだ。




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