12/7のしゅちょう             文は田島薫

(茶心について)

人々の毎日の生活、仕事やら家事やらに忙しく動き回ってる中にも楽しみはあるはずな

んだけど、そういったもんをあまり実感しないまま、なにかに追われるように、なんだ

か知らずガムシャラ頑張ってるような人もいるのかもしれない。

そんな人に必要なものが多分、茶心といったもんなんだろう、どんなに忙しい中にも、

くつろぐ気持を持つような忙中閑といった心。それとまた、いや〜、私は十分いつもリ

ラックスして生活を楽しんでるよ、って者にも有用なもののようだ。

自然を模した庭に囲まれた簡素な部屋の中で、人と静かに対座して、お茶の香りや味、

素朴な茶わんの手触りやぬくもりを感じ、季節を象徴する花瓶や掛け軸からその風情を

感じ取り、それを共感し合う。

要するに、リラックスしつつ、ある種の緊張感も共存させて、五感を解放し、見過ごし

勝ちで平凡に見える日常をきっちりと楽しみ味わう、って技術作法なんだろう。

だから、これは多分よく考えたらそんなに特別のことではなくて、なにも、茶道の会な

どに入って高い月謝払って作法を練習してなんかの免状をもらうなどと考えなくても、

その心は会得できそうな気がする。もっとも、それをきちんと学んだり教えてる人から

は、習わなくちゃ無理、って言われるかもしれないんだけど。

思うに、千利休が秀吉などに教えたのは、華美な生活に傾き勝ちな層に対し、感性を磨

くためには、究極的簡素なある意味、貧、といった状態を人為的に作る必要があったの

だろう。

そう考えると、元々貧しい庶民は日常的にそういった恵まれた状態にあるわけだから、

ただひたすら、その忙中閑の心得を得れば茶心はすぐ手に入れられるはずなのだ。

物が豊かになり、それを追うことに気持が流れて行くと失うもの、ってけっきょくは、

この、茶心、なのかも知れない、って考えたら、それをみんなですぐ取り戻そう。





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