思いつくまま、気の向くまま 文は上一朝(しゃんかずとも)
シャンせんせいの「ぼけのたわごと」、タイトル変えました。
今回のシャン先生、自分の見えは愛きょうだけど、しかし、って言ってます。
見えを張る
もう、30年以上通う理髪店がある。
その店の昼下がりの客は、近所の旦那衆と会社の役員クラスがほとんどだ。
一か月に一度行くかどうかの者の目から見ると、「皆さんどうして床屋へ?」と問いたいような、
さっぱりとした頭をしている。要は身だしなみの問題なのだが…。
先日、午後の予定が狂ったので時間潰しも兼ねて店に入った。客の間から聞こえてくるのはほとん
どが景気の話。しかし、全て景気が悪い話ではないところがこういう特殊な街の現実なのだろう。
やがて、終わった客と店員の間で、「次はいつにしましょう」「そうだな25日の○時」「28日、
時間は電話する」という会話が交わされる。来月のことではない。せいぜい2週間先のことである。
その話を聞いていて、「よいお年を」と言って帰るつもりでいたが、なんとなく言いそびれてしま
い、いつもどおりに「おせわさま」と言って出てきてしまった。
家に帰りその話をすると「見えを張ったのね」と、女房殿に苦笑されてしまった。
そこで「見え」の話を二つ
小澤学園の中国遠足が大々的に行われた。遠足のメインイベントは、随行民主党議員と胡錦濤国家
主席との握手である。議員諸侯は選挙区に帰ると、わたしは胡錦濤国家主席と握手をしてきた、と
「見えを張る」のだろが、その握手一回が日本にとってどの位の損失になるかを考えた議員がいる
だろうか。
北海道で私的に釣りに行った自衛官6人が水死した。呼び名はどうあれ彼らは職業軍人である。荒
天のなか小さな船に、しかも定員オーバーで乗ればどういうことになるのか判断ができなかったの
だろうか。私たちは陸自で海のことはさっぱりわかりません、で通る話でもあるまい。また、災害
救助の現場にいる自衛隊が、二次災害を避けるためと称して、一次大戦前の戦争じゃあるまいし、
天気が悪いとか暗くなったので戦争はやりませんと言わんばかりに早々と引き上げる話をよく聞く。
この二つの話で感じることは、自衛隊という所は戦場とか戦闘というものをどうとらえているのか
疑問に思うことである。前者の事故は戦場に対する判断の欠如であり、後者は、あらゆる能力、機
材を救助に投入しないという戦闘に対する努力の放棄としか思えない。もし、戦争とはどういうも
のであるかの意識が自衛隊にないとしたら、ただ軍備を持っていますという「見えを張る」ために
多額の税金を使うことはない。