7/22のしゅちょう             文は田島薫

(表現力について)

音楽、絵画、映画、小説、演劇、その他、表現されたものには、それを表現したい、

って動機を持った人がいて初めて表現される、ってことは当然のことなんだけど、

その動機も大きく分けて2種類あるんじゃないかと思う。

ひとつは、先人がこれまでやって来た創造作品のレベルにできる限り近づきたい、

ってことを主にした動機。別のひとつは、下手でもいいからできるだけ自分の感じ

たことを大事にした動機。

これは、どっちがいいとか正しいとか言う話ではないし、かっきり、そのふたつは

あい入れずに分離したものでもなく、たいていはその複合したものだし、どちらの

量がより多いか、って見方になるわけだけども、どちらに傾いたとしても、それの

レベルはやっぱり問われて、前者の例で、クラッシク音楽なら、最終的には演奏者

の解釈なり個性なりは出て来るにしても、その譜面通りの表現のためのテクニック

訓練に膨大な時間を使い、その完成度で人を圧倒、感動もさせる力もあるわけだ。

後者の例では、ニューミュージックのスーパースターか。

前者の低いレベルでの例としては、趣味で集った町内オーケストラとか、写実的な

風景画ばっかりみんなで描いてる絵画グループとか。後者の低いレベルでは、小説

や俳句などの町内同人誌や、町内オリジナル曲バンド(多分私もそうだ)。

で、表現されたものが人の感動を呼ぶことがあるとすれば、どちらにも言えるのは、

その動機が本気かどうか、ってことじゃないか、って思う。

前者であれば、アマチュアだけど、そのへんの連中とは違う、プロと同じレベルの

テクニックを本気で身につけたい、とか、後者であれば、少し下手だけど、自分た

ち独自の解釈や自分たちの素直な感受性を表現したいんだ、とか。

以前、スペインで活動しているプロの日本人ギタリストが5才ぐらいの息子にギタ

ーを教えたテレビ番組があり、全然うまくならなかったんだけど、父親のステージ

にゲスト出演し、だれかの誕生日プレゼントだったかの演出で演奏した。そのたど

たどしく弾かれたギターに大勢の聴衆がふいをつかれて涙ぐんでいた。




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