●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさんの快調新シリーズ13回めです。


シリーズ 世にも短い物語

焼死事件


老人は未明に、パチパチと物がはじける音と何かが焦げる匂いで目が覚めた。部屋が妙

に明るい。重い首を回して見回すと台所から火が見えるではないか。よろよろと立ち上

がって部屋の仕切りのガラス戸を開けると、炎はすでに天井に達していた。咄嗟に何を

すべきか考えられずに呆然と立ち尽くす。

とにかく火を消そうと思いつくまで少しの時間がかかった。が、消火器があったかどう

かは記憶になく、水をかけて消すにはすでに手遅れになっていた。

(逃げるしかない)

ようやく老人は思い至った。隣に寝ている痴呆症の妻を起こそうと目をやると、まだ身

じろぎもせずにすやすやと寝入っている。妻はいつも深夜まで部屋の中を徘徊していて、

なかなか寝つかず、なだめすかしてようやく眠りについたところだった。

(やっと寝てくれた。これで自分も眠れる・・・)

ほっとして老人も疲れた体を横たえ、寝入ったところだった。老人にとっては妻の介護

から解放されたつかの間の安息。そこへ、寝入りばなの火事であった。

逃げようと判断して、老人は妻の体を抱きかかえようとした。が、ふと手を止めた。

(もし、いま妻を起こして一緒に逃げ出せば、すっかり人格を失ったようなわがままな

妻の世話を再びしなければならない・・・)

そんな考えがよぎったのだ。

(妻は焼死したことにして自分だけ逃げようか? いや、まてよ、たとえ自分だけ助か

っても火事を出したとなれば、ここにはいられなくなる・・・)

火元の後始末、移転の煩雑さが思いやられた。

(なにもかもが面倒くさい・・・)

老人は生きるのに疲れていた。あてにならない子供たち、少ない年金、すっかり衰えた

体。

(俺がこれから生き延びたとしてもどんな未来が待っているというのだ?)

老人はつぶやいた。

再び妻の寝顔に目を落とす。まるでまだ正気の頃のように穏やかでやさしい寝顔である。

妻が家庭をいきいきと切り盛りして自分が一家の大黒柱として支えていた頃を思い出し

て胸がいっぱいになった。

(もうそんな時代は戻ってこないのだ。このまま一緒に死んでしまえば俺はすべてから

解放される・・・)

老人は静かに妻の傍に横たわった。


翌日の新聞に、「民家が焼失、焼け跡からこの家の夫婦と見られる二人の遺体が見つか

る」の記事が小さく載っていた。


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