4/14のしゅちょう             文は田島薫


(問答無用について)

話せばわかる、って言って、激高した反乱兵士を説得しようとしたけど、問答無用、

って銃弾を浴びせられた宰相がいた。

こういったことは、命がかからない場合なんかを含めれば、われわれの生活の中で

日常茶飯事のように行われていることだろう。

例えば、親が子供に勉強をさせようと、子供の本当の気持を表現させる機会を潰し

て、つべこべ言わずに親の言うこと聞いて勉強さえしてればいいんだ、今いろいろ

疑問があったとしても大人になれば、それが正しいということがわかるんだから、

って、ようなやりとりとか。

年長者が何か自分の考えを話した時に若い者から何か反論が来た時など、頭から、

それは聞くに値しない意見だと決めつけて、自分の言うことを聞かないなら、もう

いい、とか、うるさい、とか言い切って耳を閉ざすようなこと。


それは、あきらかに自分が相手より、立場が上だ、って自覚したものが、自分の認

識ごと正当なものと錯覚し、相手を従わせようとする本能的な感情なのだろう。

それでも、例えば、芸事なり職人仕事なり、ひとつの世界の事象についてあきらか

に、見ればわかるような経験・認識豊かな者が弟子などに対して、問答無用、って

した場合なら、それは十分に受け皿ができてるわけだから問題ないんだけど、一般

の雑多な関係の場合は、認識豊か、って感じてるのは当人だけなわけだから、それ

を納得させることは難しいし、ましてや、テーマが見方によって多岐に別れるもの

の場合は自分だけのひとりよがり、ってことが大いにありうるわけで、そこへ持っ

て来て自分の立場の優位さを利用したんでは、ただの頑固者、ってことでかたずけ

られ、いくら自分の相手ではないと思っていたとしても、未知数の才能なり能力を

持った1個の存在に次からはまともに相手をしてもらうことができなくなるはずだ

し、自分の意図する、認識豊かな人格者、といったものと真逆の評価を受けること

になるわけだから、中高年はお互いに気をつけたいもんだ。




戻る