6/4の主張             文は田島薫



(ゴミ屋敷の主張について)

時々、家電品やら家具やら自転車やら廃棄されてたものなんでも拾って来てはそれ

らを自宅の周りに大量に積み上げてる人物が、近所の住民の苦情と共にテレビで紹

介される。

たいてい、それの当事者は、リサイクル業者を名乗って、それらは再生して使った

り売ったりするもので、ゴミではない、って主張する。

一方、周辺住民の方は、あんな汚いゴミを集める者の気が知れない、って思いなが

ら、じゃまだとか美観をそこねるとか言って、なんとか片付けさせようとしたり、

役所に苦情を訴えたりしている。


で、テレビの報道側はやっぱり住民の気持の方に立って、そのゴミ主人を非難する

わけなんだけど、大局的に冷静に考えたとして、住民の言い分に絶対的な理がある

とだれでも考えているんだろうか。

大量消費社会、商品が溢れ、何でも必要なものは手に入る、ちょっと古くなったり、

動かなくなったもの、不要になったものは、捨ててしまって、また新しいものを買

えばいい、って、不要なものはゴミだ、って感じたり考えることに理があると?


物を作るには金属やら木材やらの原料や、エネルギー、労働力がいる、それらは例

えば後進国の自然環境や、豊かだった農業生産などが、目前の金銭によって破壊さ

れ続ける体制の中で成されているものだし、その作られたものは、本当に世界の貧

しい人々の暮らしを豊かにする目的であれば、世界はそうなってるはずなのに、ど

う考えても、なくてもいいもんだろう、って種類のものが一部の国々の生活圏のみ

で消費され短期で廃棄され続けているのだ。

貧しい国の人から見ればまだまだ使えるじゃないか、ってものがゴミとされ、それ

を見た人々もゴミだ、って言って意に介さない。もし、みんなが、まだ使えるじゃ

ないか、って思えば無駄な生産なり環境破壊なりは最小限にして行くことができる

にもかかわらず。

そうしたら、経済活動が鈍って人々が貧しくなってしまう、って言う学者がいそう

だけど、必要としてる人々の間に必要なものが行き渡って、無駄なことで自然破壊

せずに、ちょっと物が少なくなることが貧しい、ってことならOKじゃないか。

ゴミ屋敷の人々は現代社会への問題提起者たちなのだ。




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