6/18の主張             文は田島薫



(人づき合いの妙について)

若い頃は、知らない人の集まる酒宴などに参加するのが大好きで、どこへでも出

かけてたような人でも、年を重ねて、だんだん出かけるのが億劫になってしまう

ようなことが私自身を顧みても多いように思うんだけど、それはどうしてか、っ

て考えると、色々な理由があるだろうけど、そのひとつには、だれでも、それぞ

れの考え方やら感じ方がだんだん固定してきがちで、若い時ほどは、お互いの刺

激や好奇心を持ちにくくなるから、ってこともありそうだ。


新しい事を知ったり、自分の趣味などを発展させるには、未知の人に会ったり、

お馴染みの友人に会ったりするよりも、本を読んだり、趣味の一致した人と、ま

たはひとりで、研究する、といったことの方が効率的だろうし。


それでも、気のおけない友人と一杯飲みながら語るようなことは楽しいことで、

あまりそれを否定する人はいないと思うんだけど、そういったつき合いでさえ、

そういうことでも、だんだん億劫になるのだ。


その理由は、多分、各々が「エラクなる」ってことから来るんじゃないか、って

思う、それはどういうことか、って言うと、生活の中で知らずに高めようとして

来た自分の認識をだれもが一番に信じているもんだから、友人の別の考えに会っ

ても、それを理解する力が弱ってるところもあり、どっちか、っていえば、自分

のそれを相手に伝えたい、という欲求の方が俄然大きいわけだから、「人の考え

に聞く耳を持たない傾向」が年をとるほど増大するのだ。

で、そんなやりとりをお互いにやるもんだから、どうしても欲求不満に陥り、相

手がワカランやつだ、ってことでお互い疎遠になって行く、といった形だ。


で、多分、人にあまり会いたくなくなる、って傾向は、そういった相互関係の誤

解から来るわけだから、自分の認識が絶対、って思い込みを捨てることが大事な

んで、そうすれば、相手が彼なりにいかに人生や物事を深く追求してたかに、初

めて気づくことも多いのだ。

ちなみに、エラソーにこんな文章書いてる私だけど、世間でどんなに優秀だと言

われてる人物でも、固定した発想しかできない者には、ダメダこいつ、って感じ

る一方、たとえ10才の子供が話す話にも、ハナから馬鹿にして聞いたりはしない。


少し自分のことをたなに上げて言ってんだけど、みんなが発想を自由にすれば、

人づき合いはぐんと楽しくなるはずなのだ。




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