12/31のしゅちょう             文は田島薫


(大きなお世話について)

ちょっと前のこと、公園で寝泊まりしてたホームレスの男を同じく若い新米

のホームレスが刺殺し交番に自首したんだけど、その犯行の理由が、「お世

話になった方」に同情して、ってようなことらしかった。

何日か何週間か前に公園で知り合い、「いろいろ親切にしていただいた」ん

だけど、その方の話を聞くと体が悪いそうなんで、生きてるのが大変そうだ

って同情したらしい、彼が寝込んでるところを、いきなり襲い、寝耳に水の

「その方」はびっくりしただろう、一生懸命抵抗したらしい。


話聞いてると、頭痛くなっちゃうぐらい馬鹿げた話で、この犯人は特殊な危

ない頭脳の持ち主で、こんな人間が存在してる事実があるなら、無闇に他人

とかかわるのは気をつけた方がいいな、って素直な感想を持ち、だから、こ

れは一般化できるような話なんかじゃない、か、とも思うんだけど、でも、

ちょっと考えてみると、そうでもないかもな、って気がする。

例えば、寝たきりの親や子どもの面倒を見ていた者が、看護疲れとともに、

病人の将来を悲観し当人の承諾がなくても「不憫だから」って首を締めちゃ

うとか、そういった空気を醸したあげく、知らずに病人当人の承諾を半強制

的に導くとか、といった事件がよくある。


当人の身になってみれば同情できて、そうするのも仕方ないんじゃないか、

って意見や感想もそのたびに起るんだけど、そういった境遇になるのは、た

またまの不運が重なることが多いわけで、看護する個人の責任だけにそれを

おしつける社会じゃいけないわけで、行政の福祉課に、連絡してこうこうの

ところに病人がいて、ほっておかれるので、何とかして欲しいと、看護人が

言ってから、どっかへ逃げて行っちゃう方が全然いい、って本気で思う。


そんなことできるわけないだろう、ってほとんどの人が言うだろうけど、も

し、私が看護される側にいたとしたら、そういった敗北感を持った人間に、

そばにいられて、同情されていきなり不本意に首絞められるより、そのまま

餓死や、ノタレジニした方が気分がいいと思う。

人の幸福を願って首絞めるのは、大きなお世話なのだ。




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