3/27の主張             文は田島薫



(国際感覚について)

昔にくらべ、世界との行き来が自由になって来て、気楽に海外旅行できる経済的余裕

のある日本人も増え、外国語会話学校も盛んのようだ。

そうして外国へ行き、外国語で高級ホテルにチェックインしたり、高級レストランの

注文や高級ブティックで買い物が不自由なくできたら、もう何だか国際人気分になり

そうだし、貧しい地区に出かければ、豊かな自分がなんだか高級な人間になったよう

な気分にもなるかも知れない。


でも、それだけじゃやっぱりただの旅行者に過ぎないわけで、国際人、ってものがあ

るとすれば、それは外国のそこで暮らす人々の心と共感できる、ってことなのだ。

ただ、きどって買い物できるってことじゃなくて、そこの国はどういう人々の構成で

成り立っていて、例えば今自分が買い物している店の人はどういう立場でどういう心

で自分に接しているのか感じられることなのだ。


中国や韓国や東南アジアなどには、戦時中の日本の蛮行に怒ってる人々が多くいる。

それに対し、自国の先輩たちが犯した過ちをきっちり自覚し、そういった人々の心と

きっちり向き合う態度が必要で、日本人にありがちな、昔のことだからもういいじゃ

ないか、などといった気持があったら、彼らは本当の心を開かないはずだ。


米国に追従した日本の政策を無自覚に見過ごし、イラクにいる10万単位の人々の殺戮

に間接的に手を貸してしまってることに心の痛みを感じない、とすれば、イスラム社

会の人々との心の共感はできないだろうし、それは世界の現実をきちんと見ようとし

ていないってことにもなるわけだから、これは国際感覚がある、ということにはなら

ないだろう。


米国の攻撃後のイラクで、NPO活動してた若い女性が、いつも文句をつける地元の男

に、おまえは日本人のくせに、何でこんなとこで働いてるんだ、って聞かれ、「銃弾

の下で苦しんでいるあなたたちのようなイラクの人々を見捨てて日本に帰ることはで

きないから」って応えて、気がついたらふたりとも泣いていた、って当の日本女性の

話を新聞のかたすみで読んだ。

本当の国際感覚、って、実はこういうもんじゃないのかな。




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