2/13の主張 文は田島薫
(知らずの観念生活について)だれでも、幸せに人生を送りたい、って考えてるわけで、しかし、その幸せ、って
もののイメージが特に現代では人それぞれ微妙に違って来ているんだけど、その違
いは何か、って言うと、どうも、たいがいお金の使い方の違いだけのように見える。
物の豊かでなかった昔は、その過不足はあったにしても、貧乏人も金持ちもそれほど本質的に違った生活をしてたわけではなく、同じような種類の物を食い、同じよ
うな生地の着物を着、同じような設備の家に住んだ。
ところが、物質に豊かになった現代では、金持ちは望めば、いつでも世界中の珍味
だろうが宮廷料理だろうが食べることができ、同じように世界でも貴重な宝石や、
毛皮や、世界的といわれているデザイナーの超高価な服を着たり、最高度の電子設
備や、超高級素材でできた豪邸に住み、自家用飛行機に乗ることだってでき、いつ
でも海外旅行へ行ったりすることもできる。
仕事に情熱を燃やす人もかつて物が不足していたころは、人々が喜ぶ物を開発製造することに喜びを感じていた人々でも、何でも揃ってしまった現代では、それほど
人々の渇望がないせいもあり、作る方もただ商売で儲けることが主目的になった。
仕事は金儲けの手段になり、結局、儲けた金でどういう生活をするのかが、幸せの形のメニューになった。
ある人はグルメになり、ある人は海外旅行、ある人は住まいのインテリアや置物に
懲り、ある人は宝石や時計のコレクション、ある人は高級クラブや社交界での連日
のようなパーティで。
それぞれが自分の持ち物や、金がないとできない行動の誇示をする。
先日テレビで、金持ちじゃないんだけど、年に1度ひとかけら3万円のトリュフを買ってそれをスライスして家族4人分のスパゲティにかけ、年に一度の贅沢、ってみん
なで嬉しそうな顔してたんだけど、私にはキノコの薄いかけらをかけただけのスパ
ゲティ(メニューはそれだけ)の食事はとても貧しいものに見えたんだけど、金が
かかってることを知ってる彼らは誇らし気で、幸せそうだった。
豊かに感じるのは観念であって、物そのものを味わうってことは、もっと違うレベルの経験なのだ、ってことに人はなかなか気づきにくい。
どんなに広い豪邸でソファーに座っていても、自分の尻のスペースはいつだって同じだし、どんなに広い庭だって、広大な野山の方が広いのだし、どんな高級料理だ
って、視覚、味覚、嗅覚、触覚以上のものでは味わえないんだし、どんな宝石だっ
て、自分の五感でそれを経験しつくすことはできず、ただ、空しい所有感といった、
観念が残るだけだ。
そんなことのためだけに、いずれ死ぬことが決まってるわれわれが、貴重な時間を
浪費してるなら、本当は、無駄な仕事ではりきることさえ止めて、例えば、目の前
の一匹の虫と十全につき合う方がどれほど充実した生活か知れないのだ。
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