2/27の主張             文は田島薫



個性尊重について)

最近、先頃実施された小学校などの「ゆとり教育」の政策によって、世界比較での

学力が低下してしまった、などの理由でそれへの批判が増えて来たり、先頃のベス

トセラー「バカの壁」で、養老猛司が個性尊重教育を例えば、その結果、ふん尿で

絵を描くなど、を認めることになるから、そんなことより、みんなが共通に理解で

きるコミュニケーションの方法などを教える方が大事だ、と、個性ってものがある

とすれば、ほっておいてもだれっもが持ってるもので、そんなものをことさら強調

させる必要はない、って批判したりしているので、ひとつ反論を。


「ゆとり教育」で学力が低下、そりゃ、当り前のことで、それのどこが悪いんだ、

そりゃ、ぎっしり教科だけを教えてれば、そこそこ学力は上がるだろう、が、大体、

小学校の時にただ物理的に詰め込みだけやらせて、いくら学力が上がってたって、

子供当人の勉強への基本的動機、ってものを無視してたら、中学、高校と進んで行

くうちに、大部分は失速してしまうだろう、子供の学力が本当に伸びる時は当人の

意欲が出るその動機づけがなされた時なのだ。

小学時代まったく勉強ができなくて、後に一流大学などに合格した例など山ほどあ

るし、その逆も山ほどある。


養老さんの、コミュニケーションが大事ってことはその通りで、必要だってことは、

当り前のことで、だからといって個性尊重は不要だ、ってのは暴論だろう。

大体、それを批判するのに、わざわざ他人に迷惑をかける非社会的な行動が個性の

例えに使われているけど、そりゃ片寄り過ぎで、個性尊重の本来の意味は、社会的

にも有効な様々な能力があり、個々人によって、その持ってる能力が違うだろう、

だから、一律に同じ教科を詰め込ませるんでなく、少なくともそれぞれの能力を十

分伸ばせる芽を大切に認めておこう、ってことのはずなのだ。

コミュニケーションの大事な理由は、個々の違った長所なり能力なり(マイナスの

意味だとしても)をお互いに理解しあうことに意味や喜びがあるから、ってことな

んであって、みんなが画一化した頭だったら、おもしろいわけがない。



教師はそれぞれの教科で、さまざまな分野での子供の好き嫌いの傾向やら、能力差

などを確認し、誉める部分は誉め、それぞれの意欲を高めさせるようなことをやる

とか、それによって、自信をつけた子供は他教科にも発展することもあるわけだし。


大体、進学のための教科での成績順番はつけるくせに、運動会での順位はつけない

なんて、おかしなことは、個性尊重の認識があれば起こり得ないのだ。




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