11/14の主張             文は田島薫



(想像力について)

少年が小中一緒だった少女に恨みを抱き殺した。

高校に行った途端に少女が冷たくなったので、って言うのがその理由だそうだ。

少年は少女のことをずっと好きだったらしく、仲良くつき合ってたつもりのよう

なんだけど、友人たちはその双方がそのような関係じゃなかったと言った。

少年は少女と小中の何かの時に小さな会話などがあったのかも知れないけど、

少年はふたりの関係を勝手に妄想し、どうも、少女を自分の所有物かなにかと

勘違いしてしまったのだろう。


大人の世界でも同じようなケースがあるから、子供だけの問題ではないのだろう

けど、最近こういったことが多く起こるのは、どうも情報社会の問題点の現れ、

のような気がする。


妄想、ってものも想像力の一種ではあり、遊びとしての妄想は芸術の創造力に

なったりするものだけど、社会現実との区別がつかなくなるのであれば、それは

人間関係の破たんになるわけだから、是非ともその自覚は必要となる。


人々の想像力に現実社会との区別が薄くなったような傾向があるとすれば、本来

の人間の力であるところの想像力、オノ・ヨーコが、想像しなさい、って言う、

人や世界への思いやりや愛、っていった意味まで届いてないのだ。


その原因はなにか、って言えば、何かに追われるような大人も子供も忙しい日常

生活と、一日中垂れ流されている過剰な情報漬け生活のダブル攻撃だ。

テレビを見れば、あなたにはこんな商品必要でしょ、便利ですよ、とか、こんな

生活したいでしょ、とか、あなたはこんな風に美しくなりたくないですか、とか、

隣のお宅では子供がどこどこの学校に合格した、うちも負けられない、とか、

物質と情報吸収の価値観に忙殺され、自分の頭や身体で感じたり、考えたり、想

像したりしなくても、生活はなんとなく続くし、それをするヒマも発想もなくな

っていることにその渦に流された大勢の人々が気がつかないのだ。

常に人よりもいい暮らし、いい地位に、って競争させる教育と生活意識に染まっ

ていれば、人のことを思いやったりすることよりも、自分の都合中心の考えにな

って全然不思議はないわけだ。


本当に自分自身が感じる借り物でない想像力、ってものは、いろんな知識の量や、

パソコンやメール情報の量じゃなくて、欠乏と愛、から生まれるものなのだ。

物質偏重、情報偏重から早く脱出して「本当の想像力」を持った人間になろうよ。




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