3/28の主張             文は田島薫



(怒り方について)

喜怒哀楽ってものが人間にはあるわけだから、それを無理矢理抑えて窮屈に生活

することはないと思うし、それを表現すること自体悪いことはない。

人はそういった感情によって、現在の自己の考えや心の状態を確認することが

できるし、他人にもそれを伝えることができる。

人と人は言葉によってだけそれを伝えるわけではないのだ。


人と人がそういったコミュニケーションを行う理由は、もちろん日々の生活を

楽しむためなのだけど、それと同時に、「学習」する意味もある。

無知で裸の喜怒哀楽だけの存在だった子供から、だんだんに他人の存在も自分と

同じ重さを持ったものだ、って気づいて行き、自分のあやまちや欠点にも少し

づつ気づいて修正しながら大人になって行くわけだ。

しかし大人になれば学習は終わり、ってわけじゃない。

昔の哲学者が「汝自身を知れ」、って言ったように自身の欠点を克服して行く

作業は一生の仕事なのだ。


自身を知るのが難しいわりに、他人の欠点はすぐ気づくもので、他人に対して

怒りを感じることはだれにでもあるだろう。

だから、人に対する怒りってものは、即自分に向けられる怒りの可能性とペア

なのだ。

でも怒りを感じたら怒ればいいだろう。


でも問題は、怒り方だ。怒りが自分の感情を確認し、相手にそれを伝える、と

いう目的だったら、それをただ言葉で表現すれば済むことなんだけど、気持が

高ぶったなら大声も仕方ないかも知れない。


ところが、それに暴力が加わったらどうだろう。力づくで相手を抑えこむことに

よる効果を望むとしたら、それは主従関係を要求してる事にならないだろうか。

封建時代の人間関係ってものは、秩序はあるかも知れないけど、原始的なものだ。

本当に理想的な人間関係は力づくで主張せずとも、知らずに敬意を交換し合う形

まで築き上げられて行くものだろう。

それぞれが学習の途中の段階で怒りを感じたら、腕力によらず、できれば穏やかに

相手にそれを指摘できた時に最大の説得効果を生むし、彼は敬意を獲得するのだ。

伝達方法としての暴力は結局は逆効果で空しい手なのだ。




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