9/13の主張 文は田島薫
(商業的愛想について)私の親戚で、定年後海外旅行に度々出かけているうらやましい者がいて、
先日会った時、中国の空港での係員の態度が無礼だった、と憤慨していた。
何か日本でだったら、ありえないような手続き上の不効率を、おわびの
言葉も抜きの素っ気無い態度で、一方的に通達されたかららしい。
日本でだったら、なんて気のつかない無礼な人間だろう、ってだれもが感じるだろうし、海外であっても、同じように感じても不思議はないだろう。
彼はそれが人間一般に共通する感情であって、日本だろうが、海外だろうが
関係ないことだ、と主張していた。
感情論としてはだれでもとてもよく分かる気がすると思うし、そりゃもっと親切にこっちの気持ちにも沿ってやってもらえた方がいいに決まってる。
しかし、よく考えてみると、われわれが当然のことと考えている、サービス業者の接客時の笑顔なり気配りは、多分、自由主義消費経済で過剰に発展した
ものなのだ。
たいてい商人は他店よりもより多くの顧客を獲得するために、感じのいい、
より愛される「しもべ」を演じるのだ。
商品なりサービスなりを提供する側と、それを金で買う側、冷静に考えれば、
お互いに利害が一致した取り引き、とすれば、対等の関係でいいはずで、
それでも、お互いが信頼を感じながら、自然の微笑みを交わしあえたら、
それはよりいいだろう、という程度のもんではないか。
中国に自由化が進んでいるとはいえ、社会主義国であることを考えたら、一方的な愛想を求める方が不自然なことなのだ。
日本だって、この間まで役場のほとんどの役人に愛想がなかったではないか。
商業主義社会にあっても、私は自分で愛想を表現できてないのであれば、その商人の方にだけ、愛想を求めることはおかしいことだ、って今は感じる。
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