2/16の主張             文は田島薫



バカの壁について)

養老孟司の「バカの壁」が何百万部の大ベストセラーになったのは、やっぱり人々が

何となく感じていた問題をわかりやすく説明した本だからだろう。

人はだれでも自分が見たいものしか見えない、だから、その壁の向こうを見る意識を

持つべきだろう、要するに多様な価値観を理解できる能力をできるだけ身につけたい、

といったテーマだと思うけど、これは頭でわかったつもりでも、なかなかしぶとい問題だ。


私自身もそうだけど、自分で考えたり感じたことは一番「いいもの」と思っているところが

あって、自分と違う考えや感覚に対しては、思わず「だめなもの」と切り捨てがちだ。

それにはなんらかの根拠があり、それを意識または無意識に信じているためだ。

ひょっとすると、バカの壁は自分の問題ではなく、自分の周囲のことだと考える人も

けっこう沢山いるのかも知れない。


あらゆる現実の物事はいろいろな要素を含んでいて、純粋絶対的に存在するものはない。

だから、無条件に「いいもの」や「だめなもの」があるのではなく、ある条件の下では

これが「いいもの」になり、それが「だめなもの」になるのだ。

その条件も複雑にからみあってくると、それもはっきりしなくなる場合があるから、

その条件というものは常に意識しなければものの判断はできないということになる。


ものを突き詰めて考える習慣のない人にはそれがわからないので、条件を無視し、

または勝手なひとつの条件だけを意識し、「だれが見てもだめなもの」と言いきって

しまうことがよくある(つい先日もそういう体験をした)。


政治的発言でどうしても抜いてはいけない条件は、ひとつの政策を進めた時に恩恵がある

人々がいても、他に犠牲になる人々がいてはいけない、ということだと私は思う。


芸術や宗教、習慣に関しては、時代の流行といったもの以外には、人それぞれ感性を

「素直に出せてた」なら、「いいもの」や「だめなもの」はなく、あるのは「ちがい」

だけだと言ってしまいたいのだけど、結局人々は知らずに意識が環境や個人的思い込みに

とらわれてしまっているのだ。※技術的なものも含めてこれが難しい


だから、そういったものに、だれが見てもだめなもの、センスが古いものと感じた時は

気をつけよう、あなた自身の感性が普遍的なものと勘違いしているか、または、あなた自身

の感性が働いているのではなく、流行や思い込みにとらわれているだけかも知れないのだ。

そういった判断からは決して新しいものは生まれないだろう。




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