7/7の主張 文は田島薫
(人間の共通性について)世界各地で起きている民族紛争、独立運動、宗教対立などの根が深いのは、
最終的にそれぞれの立場でのプライドを通すためのパワーゲームになってしまう
ところに問題があるせいだろう。
歴史も発展過程も異なる、各民族、宗教などにはそれぞれの理屈なり合理性なり、
正当性が存在しているはずなのだ。
昨日ちょこっと数ページ読んだ養老猛司の「バカの壁」には、一神教などの宗教を絶対視し主張するイスラム原理主義なり、ブッシュのキリスト教原理主義などの
一元論的発想が諸悪の元だから、もっと多元論的にものを見て行くべきだ、とあった。
そして、日本人の「人間はみな同じ」という発想は甘いとしても悪いことではない、
国家間などで問題が起きた時、思想的にはそうでも、人間としてはこうだろう、と
共感しあえる可能性があるだろう、と。
一元論的発想が諸悪の元はいいとしても、「人間はみな同じ」は無条件で使うには少し問題を含んだ言葉だ。
これが使えるのは、人間はさまざまな思想なり技術なり、知識なりを求めて生きて
いるけど、食欲、性欲、異性愛、家族愛といった、感じたり行っていることに、
裸になった生活の本質的なところでは、誰も違いはないだろう、ということだけだ。
最近、子供の運動会などの競技で順位をつけない、といったことが行われているらしい、が、勉学においては、あきらかに順位をつけておきながら、ある分野に
おいては平等だと。
また、先日、軽口議員が日本による朝鮮人へ創始改名は彼らの要望による、もんだ
と、いった発言。
世界は民主主義で統一されるべきだ、と強引にアフガンやイラクを爆撃した米国。
どれも、人間はみんな同じはずだ、で、自分のところの考えが一番進んでいるから、
それでみんなをおさめてあげるのだ、といった思い違いから生じたのだ。
国や、個人、各人間のそれぞれの在り方の違いに敬意をはらい合い、はっきり認識し合い、認め合える可能性のベースに、「人間はみな同じ」ということがあるはず
なのだ。
「人間はみな同じ」と言いたい時は、ちょっと立ち止まって考えようではないか。