12/22の主張 文は田島薫
(自由の本質について)先日友人の女性から、私が何のためにこの主張欄書いてんのか、わからない、
主張して、だからどうしたいのか、がわからない、といったことを言われた。
で、けっこうそう思っている人も多いのだろうということで、理由を、
結論から言うと、「言いたいことを言うのが楽しいから」。で、どういう魂胆で楽しいのか、って言うと、自分から見て間違ってる、と感じる
事柄にダメ出しをすることによって、自分の理想に近い世の中に少しでも近づくん
ではないか、と感じるからだ。
それは甘いよ、人はちょっと何か言われたことで、わかりました、とはならないぜと言われるだろうけど、そんなことは私だってわかってます。
じゃ、書くだけ無駄じゃないか、と言われると、そんなこともないはず、と思う。
だいたい大抵の人々はみんなが住みよい平和な世界になって欲しいと、どっかで感じているはずで、しかし、自分でできることが何かを知らない、で、そういった
立場から言えば、私の書いてる主張だって、自分の位置と変わらないじゃないか、
それなのにそれにどういう意味があるのだ、ってことになるのだと思うし、
私が書いてる内容はそんなに特別なことじゃなく、わかり切ったことだ、と感じる
人も多いはずだけど、だから無意味ということにはならないのだ、理由のひとつは、
わかり切ったことだ、と感じない人々もいるからだ、そんな人が何言ってんだろう、
と感じ、違った意見として頭のかたすみにひっかかったとしたら、それは少し彼を
変えたことになることだし、理由のもうひとつはむしろ、分かり切ったことだ、
と思う人々は私の仲間で、言ってみれば同意見を確認しあったそういう人々の輪を
広げて行くことこそが一番の目的だからだ。
人は社会に出ると様々な利害関係の中に組み込まれ、自由にものを言うことができにくくなって行く。
自分がほんとうは何を望んで、何を言いたいのかを自分自身で見失うことも
ありうることだ、そこへ、「私たち」がわざと言うのだ、王様ははだかだ、って、
ね、あたりまえのことを言って無意味だってことばかりじゃないでしょ。
世の中が変わるためには個人が変わらなくてはだめなわけで、まず、自分が“ほんと”に気づき、隣人に伝え、またその隣人に伝える、ってことでいいのでは。
反対意見だって、ありなのだ、大いに論争して、“ほんと”をつかもう。
人が“ほんと”に思ったことを気兼ねなく表現しあえるって、〜 でしょうが。