12/17の主張 文は田島薫
(芸術作品の批評ついて)
政治、経済、社会科学、自然科学といったものの認識は、
直接人々の生命や生活に影響を与えるものだし、
現実に有効かどうかの結果が出るものだから、
認識を修正しあうための批判精神は必要なことだと思うけど、
「芸術作品」の批判に関しては少し事情が違ってくる。それらは、個人の自由な発想、感性が土台になるもんであって、
個人個人がみな違うのだから、感じ方は人それぞれ。
ふだんわれわれも気軽にやってしまうことなんだけど、ある作品が自分の認識や方法論と違っているからといって、
価値の低いものだと断言するのは本当は、傲慢なことなのだ。
ましてや、わざわざそれを作者や、鑑賞者に向けて公言する
必要はあるだろうか。
特に、前例のない表現に対しては人は間違いを犯しやすいが、同様に類型的な表現についても、気をつけるべきだろう。
例えば、その表現がひとつの類型技術によってなされていた場合、前例のない新しい表現形態でなされたものより、
創造性が少ないとは言えるかも知れないが、
そんなことは、指摘されなくたって誰にでも分かることだし、
表現動機の中で、あえて類型技術によったほうが思いを、より忠実に再現できると作者が考えた場合は、
それはそれで表現意義はあるのだ。
芸術批評に意味があるとすれば、鑑賞者の中でずば抜けた鑑識眼(自分で作品創造ができなくても)
を持った者が、一般の人々が見逃しがちな、作品の感動の
ありかを説明し、その作品の存在価値を浮きださせる場合
ではないだろうか。
批判の場合は、修行途中の芸術家が、表現上で壁に突き当たっていて、その表現分野で、あきらかにその芸術家以上の経験認識を持った
批評家に芸術家本人が、教えを乞う場合だけであろう。
しかし、そういう場面はあまり考えにくい気がする。
なぜなら、芸術活動というものは、個人が内発的に築きあげていくもので、人に聞いて認識するものではないからだ。
感動したものに賛美を、しなかったものに沈黙を、で、みんながそれぞれ好きにやっていけば、いいんじゃないだろうか。
とは言うものの、徒党を組んで、類型技術の宗教団体のようになった、権威組織などは、批判されるべきだと思うし、
どこが悪いか言ってもらおうじゃないかと、別々の趣味の人間が
お互いにアカの他人の作品について言いたい放題し合うというのは
シャレの世界だし、アリだとは思うが。